文=本間恵子

アスプレイの「シグネットリング クッション」。IT CAN BE DONE(もちろん承ります)と刻まれた言葉は、さまざまなスペシャルオーダーを引き受けてきたアスプレイのモットー。/アスプレイ ジャパン

貴族や騎士たちの特別なジュエリー

 かつて、男性たちがこぞって身につけたジュエリーがあった。「シグネットリング」だ。フランスでは「シュヴァリエール」と呼ばれるこのジュエリーは、紋章や図案、モノグラムなどを金属や宝石に刻みつけた印章指輪のこと。押印に使ったり、文書や手紙にロウをたらして封をするとき、封ロウの上に押しつけて紋章を印するためにも使った。ゆえに、図柄の部分は浮き彫りではなく凹状の沈み彫りで刻まれ、ロウに押しつけると図柄が浮き上がるようになっていた。

 印章指輪は古代ローマでも男性たちが好んで身につけ、カエサルは武装したヴィーナスを、アウグストゥスはアレキサンダー大王とスフィンクスを指輪に刻んでいたという。中世になると貴族や騎士たちが紋章をゴールドの指輪に入れるようになり、職人の親方や商人たちもブロンズの指輪を所持した。いまでは押印文化そのものがデジタル化で消え去ろうとしていても、紳士たちの上品なアクセサリーとして印章指輪は続いているのだ。

1940〜50年頃のフランス製シグネットリング(押印用ではない)。18Kゴールド。45万円(税別)/ギャラリートイダ銀座

 フランス製の古いシグネットリングを見てみよう。ゴールドにあしらわれているのは、波に揺られる帆船。これは、実はパリ市の紋章であり、ラテン語で FLUCTUAT NEC MERGITUR(たゆたえども沈まず)とスローガンが刻まれている。スローガンはパリが水運都市として発展したことを表し、歴史の荒波にもまれながらも屈することなく、したたかに生き抜いてきた来し方を表している。

 リングが作られたのは、推定1940〜50年。第二次世界大戦のさなかから戦後の復興期にかけてのことだから、持ち主は心に期するものがあってこれを身につけたに違いない。このスローガンはパリ同時多発テロ事件のときに街角に掲げられ、COVID-19のためロックダウンされたパリでもまた、市民の心のよりどころになっているという。

 

現代はよりユニセックスなスタイルに

 こうしたシグネットリングがいま、メンズファッションにアクセントを添える瀟洒な小物として、再注目を浴びている。ボーダーレス社会の現代ならではのこととあって、女性たちの間でも人気が高まっているのが特徴だ。

アスプレイの「シグネットリング ラウンド」18Kイエローゴールド。25万円〜(税別) 刻印なし、またはイニシャル刻印代込みの価格。エンブレム刻印は別途見積となる。納期3ヵ月。/アスプレイ ジャパン

 英国の老舗アスプレイでは、アーカイブから復刻したシグネットリングをオーダーすることができる。クラシカルなクッション形やオーバル形が揃うほか、女性の指にも似合う繊細なラウンド形が新作として発表されたばかり。イニシャルや家紋、名前、エンブレムをオーダーで彫ってもらうことができるだけでなく、宝石をセットすることも可能だという。

 日本では、ジュエリーデザイナー石原勇太のブランド、SHIHARAからモダンな最新作「Un-Signet」が登場。正八面体に結晶したダイヤモンド原石の形をそのまま生かしたデザインで、側面からも原石の形を見ることができる。ゴールドの台座はシャープに切り出されていて、無駄をそぎ落としたミニマルな造形になっているのが魅力だ。

左:「Un-Signet Rough Diamond Ring 01」38万円〜(税別) 右:「Un-Signet Rough Diamond Ring 02」39万円〜(税別) ともに18Kイエローゴールド、ダイヤモンド。ダイヤモンドの大きさにより価格が異なる。2020年6月上旬より発売予定。/Shihara Lab

ダイヤモンドで窓ガラスにいたずら書き

 実は、ダイヤモンドの原石をはめこんだ指輪というのも、中世からすでに存在した。ダイヤモンドは最高の硬度を誇る物質なので、とがった部分でこするとガラスに線状の傷をつけることができた。これを利用して恋人たちは、指輪にはめこんだダイヤモンドで窓ガラスに愛のメッセージを刻んだりした。

 いまもサンクトペテルブルクの冬宮殿には、ロシア最後の皇帝ニコライ二世の妃、アレクサンドラが書いた文字が窓ガラスに残っている。「Nicky 1902 Looking at the Hussars 7 March(ニッキー、軽騎兵を見ているの)」。ニッキーはニコライの愛称で、宮殿の中庭で閲兵する夫を見下ろしながら、無聊のなぐさめにアレクサンドラが指輪で刻んだのだろう。日付を入れたのはちょっとした記念のつもりだったのか。1917年にロシア革命が起こり、その翌年に皇妃は夫や子供たちとともに革命の露と消えた。