福岡の老舗菓子店「パティスリー イチリュウ」は地元の人々に愛される、気軽なケーキ屋さん。その4代目にあたる納富大輔は、フランス最高のパティシエが、自身の片腕と認めたという、経歴の持ち主だ。この人物が、なぜ、町のケーキ屋さんなのか?

学校をサボって遊んでいたボンボンが、一人前の経営者になるまでの、奇妙な経歴書。

この物語の主人公、納富大輔さん。パティスリー イチリュウ 九大学研都市店にて

県内屈指のケーキ屋のボンボン、フランスへ行く

 納富大輔さんは、福岡で愛されているお菓子屋さん「パティスリー イチリュウ」の4代目予定。2代目が『シャルロット・オ・ショコラ』という菓子を生み出し、福岡のブライダル菓子の定番として盤石の地位を築いたあと、3代目が大型商業施設のなかに生菓子店を出店する、という戦略を打ち出し、これが大ヒット。その長男として、大輔さんは生まれた。生まれながらの「若殿」だ。

「まぁ、それがだんだん嫌になってくるわけですよ。自分の人生は、自分で決めさせてくれって」

 当時の大輔さんの趣味はボーリング。学校をサボって毎日、ボーリング場に通っていた。といえば、ただの不良少年だが、そのボーリングンも腕前は相当なレベルに達し、国体選手になれる、とスカウトが来るほどだった。

 そこでピンときた。

「当時、私は、とあるフランス人選手のファンだったんです」

 フランスに行けばいいんだ、と国外逃亡だ!と企てたのだ。中学2年生の終わりごろ「料理の道に進みたい。どうせなら本場、フランスを体験したい」と両親にそれらしいウソをついた。

 それを聞いた父親は「そのアイデア、いいな!」と、乗ってきた。

「父は若い頃はバックパッカーをやって海外を旅していたような人なので……それでフランスの高校に入ろう、ということになったんです」

 神戸の甲南大学の付属高校が、フランスのトゥール近郊、サン・シール・シュール・ロワールという町にあったので、そこに入学することになった。

「周りのみんなは、そこで3年過ごしたら日本で甲南大学に入るんです。でも、私は、そういう目的じゃないから」

 学校を抜け出すのは得意技。フランス人友達をつくって、遊んでいた。しかも、幸運なことに、大輔さんの憧れの選手の拠点が、トゥールだった。大輔さんは、憧れのスターにボーリング教えてもらうようになり、その腕前から、すぐに、彼に代わって、子どもたちにボーリングを教える立場になった。このおかげで、フランス語を不自由なく使えるようにもなった。

「そういうの、引きがいいんですよね……でもウソですけど、料理をやるっていう約束で来た手前、料理はやろうとおもって、高校卒業後、パリのコルドンブルーに入ったんです」

 それで、本当に料理をキッチリ学び、料理人としての資格をとった。

「でもダメなんです。まったく合わない。料理に全然興味をもてないんですよ」

 そこで、残ったのはボーリング。今度は本場、アメリカで、腕を試そう、あわよくばプロになってやろうと渡米。ところが、そこで思い知る。大輔さんはプロはおろか、アマチュアにすら勝てなかった。

 夢やぶれた20歳。ワールドトレードセンターに旅客機が突っ込んだ頃、大輔さんは日本へ向かう飛行機に乗った。

パリに帰る

 しかし、大輔さんは結局、日本で身を固める、ということはなく、学生ビザを取得して、再びパリに飛んだ。

 そして今度は、コルドンブルーで菓子職人の資格も取った。ピエール・エルメに研修に行き、ピエール・エルメ本人に直談判して、研修の身分ながらにマカロン部署に入れてもらい、門外不出のレシピを頭に叩き込んだ。

ピエール・エルメで学んだマカロンの知識は、後に語られるオリヴィエ・バジャールをはじめ、数々の一流パティシエとの協働の経験と、独自の哲学が合流した、納富大輔オリジナル マカロンとして、現在、日の目を見ている

 そして、フランス語が使えることを活かして、ツアーガイド、添乗員のバイトを始めた。

「しばらくして、日本の大使公邸の料理人のバイトもするようになったのですが、これがなかなか給料がよかった」

 そんなある日、日本の大きな乳業メーカーから電話があった。

「聞けば、取引のある菓子関係者を連れてパリに行くのだけれど、そのグループにはうちの父もいる。それでアテンドをお願いできないか? ということだったんです。父に会ったら、連れ戻されるという思いがあって、イヤだったんですが、結構、割のいい金額を提示された上に、父親が来ているのに知らんぷりもないだろう、ということで、やることにしたんですよ」

 かくして、日本を代表する大物パティシエたちが来仏した。

「父だけ、経営者でパティシエじゃないので、なんか奇妙でしたね」

 そして、このツアーが大輔さんの人生を変えてしまう。

「ツアーのなかでとあるイベントがあって、それはフランス最優秀職人賞を最年少で獲ったオリヴィエ・バジャールさんのデモンストレーションだったんです。私はアテンドなので、一番後ろにいて、ノキアのケータイでゲームしてた」

 が、このイベントはおかしかった。1時間程度のデモンストレーションのはずなのに、15分、30分と経過しても、バジャールさんは菓子を作らないで喋っている。

「大丈夫かな?とおもって見てみたら、そうじゃなかった」

 オリヴィエ・バジャールは菓子を作っていた。しかし、手際が良すぎて、作業していることがわからなかったのだ。テーブルの上はピカピカ。なのに菓子は出来上がっていく。

「衝撃的でした。私がコルドン・ブルーで学んだものとは全く違う」

 大輔さんは、その神業を目に焼き付けようと最前列へ。質疑応答の時間も、居合わせた大物パティシエの通訳ではなく、自分が質問していた。

怒りの粘着

「このとき、バジャールさんは独立して会社をやる。それは菓子店と菓子の専門学校が一緒になったもので、世界中の生徒を集める、と言ったんです」

 ここで、ぴーんときた。これだ。

 自分ほど、バジャールさんにとって魅力的な人はいない。フランス語も、英語も、日本語もできる。こんな人がそばにいれば情報発信は3カ国語対応。もちろん、料理業界も菓子業界も経験済み。スポーツもやっていたから体力も根性もある。 雑用だろうが、なんでもやる。

「私はこの時のためにいままで生きてきた。さあ、雇え!」

 答えはNoだった。フランス語だからNonか。そりゃそうだろう。しかし、当時の大輔さんは納得がいかなかった。

「だんだん、悔しいよりも、怒りが湧いてきました」

 こんなに魅力的な人材をなんで雇わないんだ!と断られた次の日から3カ月間、毎日メール。メールをした直後に電話をした。

「最初は電話で話を聞いてくれるんですが、だんだん、出ない、出てもすぐ切る、となっていって、それでも3カ月ずっと続けたんです。そうしたら、3カ月経ってはじめて、バジャールさんから電話かかってきた」

 電話に出ると「お前今日も俺に電話するつもりなんだろ?」という。答えは当然、Yes。フランス語だからOuiか。すると

「とにかく会おう」

 意外な展開になった。履歴書と分厚い自己PR書を急いで作り、面談当日、これをオリヴィエ・バジャールに突きつける。が、最優秀職人はこれを一瞥すると破り捨てた。

 終わった……うなだれる大輔さんにオリヴィエ・バジャールは言う。

「お前の気持ちはこんな紙切れに書き切れるようなものなのか?」

え?

「俺と本当に働きたいのか?」

そりゃどう見たってそうでしょ……

「よし。じゃあやろう。俺が菓子学校兼菓子店をつくったのは、カタルーニャのペルピニャンという町だ。お前もそこに来い」

 なんだかわからないけれど、わかった。と答えると、大輔さんは当時の仕事も、仕事のオファーも全部捨て、スペインとの国境近く、南仏、ペルピニャンへ旅立った。借家の契約がまだ解約しきれていないが、もう、そんなことはどうでもいい。

 ペルピニャンに着くと、エプロンを渡された。

あれ?事務仕事じゃないの?

「バカをいうな。全部やるんだ。店をつくるのに借金して金はないから、給料は払えないが、従業員は俺とお前しかいない」

 大輔さんの答えは決まっていた。「上等だ!」

オリヴィエ・バジャールの一番弟子

 こうして、飛び級した大輔さんは、徒弟、丁稚奉公となった。仕事は見よう見まねで覚えた。学校と店のためのケーキを作っては二人でサラダを食べる。売り子もやる。クリスマスになれば徹夜は当たり前。

 師匠のオリヴィエ・バジャールを夜12時に追い出し、大輔さんは2時まで仕込みや掃除。朝は4時に出社し、準備して、師匠の6時の到着を待つ。

 この生活を3年毎日続けた。

 徐々に、スタッフも増え、学校の生徒も増えていった。バジャールさんの伝手で、世界中から超一流の料理人、菓子職人が講師として招聘された。アシスタントはすべて大輔さんだった。

ドイツからの生徒さんと大輔さん

 5年が経った。大輔さんは29歳。約束の時だった。5年間働く、大輔さんはそう言ってペルピニャンに来ていたからだ。

「お前は、通常10年かかる道を5年で駆け抜けた。お前は俺のすべてを理解し、習得した」

 オリヴィエ・バジャールはそう言って、大輔さんを追い出した。ここに納富大輔というオリヴィエ・バジャールの分身が生まれた。

こんなまずいタルトタタンが食えるか!

 オリヴィエ・バジャールの元を離れた、大輔さんには、行き場がなかった。なにせ、5年でフランス最高峰の菓子職人の技はもちろん、経営術まですべて身につけたのだ。もはや師を持つ身ではなくなった。「独立しよう」大輔さんは、フランスで日本人として、菓子のコンサルティング会社を立ち上げた。

 仕事はあった。言葉もできればコネクションもある。世界中を飛び回った。忙しい日々の楽しみは、ロワール川のほとりの古都、アンボワーズの城の門前にある老舗パティスリー「ビゴ」でタルトタタンを食べることだった。

 が、ある日。そのタルトタタンが不味かった。なんだこれは!

「俺の愛するタルトタタンになにしやがる!」

 大輔さんは店員呼んでそう言った。ところが、その店員は、ビゴのオーナー、クリスティアーヌ・マソンだった。

 一瞬怯むも、大輔さんは思いの丈をぶつける。3時間に渡る、愛の告白と怒りの吐露。それを聞いたクリスティアーヌは

「あなたみたいな人を待っていたわ」

 と言ったのだった。

老舗のタルトタタンを救え!

 納富大輔の「パティスリー  ビゴ タルトタタン復活プロジェクト」がスタートした。

 店で働き、従業員たちを観察した。そしてすぐに、この小さい組織のなかに、派閥があることを理解した。大輔さんは、販売、パティスリー、カフェ、すべての部署で一緒に仕事して従業員たちとの親睦を深め、1カ月後、全員を招聘してミーティングを開催した。フランスの小さな会社は一般的に、ミーティングなどしない。言うことは決まっていた。

「お前らは、こんな小さい組織で何が楽しくて派閥争いなんてしてるんだ!だから俺のタルトタタンがまずくなるんだ!」

 こう、タンカを切って、以降、毎週、ミーティング……というようりも飲み会を開催した。徐々に、組織の風通しはよくなり、建設的な話がはじまる。そして3カ月後、ビゴのタルトタタンは復活した。

復活した「ビゴ」のタルトタタンとともに

 自らの休日の楽しみを救った大輔さんは、再びビゴのファンに戻った。

 復活祭の日、ビゴを訪れると、馴染みのスタッフが、チョコレート菓子をくれた。熊の形の新作チョコ。商品名は『ダイ』と書いてあった。

 涙が溢れた。

フランス語なので「Daie」で大輔さんの「ダイ」。19ユーロ也

 そのしばらくあと、日本から電話がかかってきた。父親からだった。