文=林 美里 イラストレーション=ひとつぼし kei

音楽を学びにパリへ

耳が圧迫される様な嫌な違和感。
それとくぐもった男と女のいくつかの外国語のアナウンスが、
私を眠りから覚ます。 そして目的地が近い事を知る。
美しい民族衣装をアレンジしたユニフォームを纏った
キャビンアテンダントも、いつのまにかシックなスーツに着替えていた。
シートベルトの着用を乗客に促しながら横を通り過ぎる彼女の後姿を
ぼんやりと眺め、「綺麗なお尻 、、」だなんて、意味のない事を考えた。
機内の窓から眼下を覗く。
フランスの地は厚い雲に覆われ未だ見えない。
しばらくすると機体は雲の中に突入した。
不意に機体の下降を体で強く感じる。
すると唐突に眼前に滑走路とパリ郊外の景色が広がった。
それは飛び降りる事が出来そうな程、近くに思えた。

私はパリに音楽を学びに来た。
周囲の人の多くは留学に賛成しなかったし、私のスタイルを知る演奏家たちは、
「フランスはちょっと違うんじゃない!?」という声が多かった。
それまでの私もそうであった様、日本においてマリンバの演奏スタイルは
重厚でがっしりしたドイツ的なものか、派手なアメリカ的なスタイルが一般的で、
フランス的な流麗、華麗なスタイルを目指す演奏家はほとんど見受けられなかった。
だから新しいスタイルに挑みたい気持ちも強かったし、
感銘を受けたフランス人演奏家にも師事したかった。
それとラテンパーカッションも勉強したかったので、
同じラテン語圏で南米からの人たちも多く暮らしてそうなパリなら、
本物のラテン音楽に触れる機会も多い気がした。
それに関しては、なんとなくボヤっとした想いだったけれど、
結果的には正解だった。

 

10月のパリはヴェルべットの天蓋に覆われ

飛行機はシャルルドゴール空港のAérogare1に横付けされた。
著名な建築家 Paul Andreu 設計のアバンギャルドなターミナルは
摩訶不思議な空間だった。
当時の人が想像して、けれども現実にならなかったパラレルワールドの
未来みたいに思えた。

ターミナルを出た私はタクシーでパリの市内に向かった。
10月のパリはまるで濃いシルバーグレイのヴェルべットの天蓋に覆われた、
何かから守られている、そう、まるでシェルターみたいに思えた。
タクシーの車窓からぼんやり眺めるパリは暗く煤けた印象だった。
「アン・ドゥ・トロワ、、」次は何だっけ?
不意にそんな事を考えたら、
パリの空模様同様、私の心も暗雲に包まれた。
「大丈夫かなぁ?」小さく呟いた、、

市内に近づくにつれ、夜の帳がゆっくり目に映る全てを包み始める。
すると ポツリポツリ と灯り出す街明かりが躍り出す。
暗く煤けた街並みが徐々にその色を変える。
「ハァ~、、きれい、」
私の頭の中でチャイコフスキーの「くるみ割り人形」が響き始める。
タクシーを降りた私のロイヤルブルーのカーディガンを通して感じる冷気は、
目の前の街路樹を走り抜け、旅立つ秋を感じさせた。
目の前の煌めく街並みは、とっても綺麗だったけど、
長旅の疲れとパリの寒さ、そして何よりも心細さに「ギシッ、、」と
心が軋む音が聞こえた。

小洒落た小さなビストロで

そうは言っても人はおなかが減る。
どこか女ひとりでも入りやすく、美味しそうなお店はないかなぁ?と探してみる。
すると小洒落た小さなビストロを見つけた。
ちょっとドキドキしながら扉を開けた。
席についてオーダーを済ませたら少し落ち着きを取り戻した。
程なくすると、「マドモアゼル」と声を掛けられる。
テーブルの傍らに、チリチリ頭で痩せた神経質そうな
コック服を着たギャルソンが立っていた。
両手にはナイフとトマトを掲げていた。
そして当たり前だけど、フランス語の早口で シュビシュビダバダバ 何か言ってる。

ここからは私の意訳。
「ねぇ、東洋のお嬢ちゃん。今日は忙しくって疲れちゃったからさぁ~、
あんた自分で切ってサラダ作りなよ!」
その時の私はフランス語を解せなかったけど、絶対そう言ったと思う。
私が頼んだのは、salade de thon、つまりツナサラダ。
おいおい!ツナはどうした?せめてツナ缶頭に載せとけっ!
と、思ったけど、私は困り顔で、「ノンノン、、」と子供みたいに大きく首を振った。
するとチリチリは、口元の端に憎たらしい笑みを浮かべ去っていった。
私は疲れと空腹でゆっくりになった頭で今の出来事を考えてみた。
( いったいあのチリチリは何?あの態度は何?)
全く味のしないサラダを飲むようにお腹に掻きこみ、足早に店を後にした。

後になって理解する事になるのだけど、
要するに「フランス式ジョーク」なる外国人を非常に狼狽させるもの。
人を不愉快にさせておいて、「冗談だよ!」って言うような類の
今の日本においては確実にイジメ認定されるような行為。
いったい全体何が楽しいのだろうか?
以降パリにいる間、多少は馴れたけど決して馴染めなく、
私をイライラさせっぱなしの、フランス的なるもの、だった。
程度の差はあれど、そんな事が起きるたび心の中で呟いた、
( 幼稚な奴めっ 、、) 。

 

頼れる友人もなく全て一人で

私が行った当時はスマホなんか影も形もなく、
今とは比べるもなく、ネット環境も不十分だった。
だから必要な情報を得るにも苦労が絶えなかった。
国際電話もテレフォンカードでかけると幾分安くなるサービスがある程度。
それから日進月歩で環境も整い帰国の時にはスカイプで
問題なく話せるようになって随分便利になった事を憶えている。
そんな当時の環境で頼れる友人もなく全て一人でこなさないとならない状況は、
絶海の孤島に取り残されたようなものだ。
気分はもうロビンソン・クルーソー パリ版!
ロビンソンがバナナの葉で小屋をを建てるのと同様、
まずは 住まい を何とか確保せねば!

どうにかこうにか日本人の不動産エージェントを探した。
そのエージェントは長くパリにいる日本人の中年女性だった。
いつこっちに来たのか尋ねたら、「昔過ぎて忘れた」と。
今となれば、外国にいる日本人あるあるの、それでも稀ではあるが、
たまに出会うタイプの人であるのだが、
それまで日本から出た事もない私には結構衝撃的な出会い。

その見た目は頭がキノコみたいで、シルエットはマロングラッセ。
雰囲気は コシノジュンコ ミニチュア版。
声は甲高く、超絶早口の中にフランス語が混じる。
日本人と日本語で会話をしているのだけど、妙な違和感が、、、
異世界の人と喋っているような、それか頭開けると機械が詰まったロボットと
喋っているような、、何とも言えない感じだ。
異文化に長くどっぷりいるとこんな仕上がりになっちゃうんだぁ、
としみじみ思った。
でも当時の私に教えてあげたい、「あんたもこうなるよ!」って。
とりあえず「今ここしかないわよ!」とジュンコに勧められた
アパルトメントに決めた。
結局そこには帰国まで住み続ける事となった。
それはこのアパルトメントに出会えた幸運と、このアパルトメントのおかげで
付いて回る、その都度へこまされる面倒さを向こう八年間味わう事と同義となる。

 

初めての一人暮らしが始まる

そうなれば、次は契約だ。
どうやらジュンコはソフィアに住むブルガリア人の大家から委託されて
その物件の管理を任されているらしい。 ジュンコのアパルトメントに呼ばれ、
契約書をバサッ、と机に投げられる。「ハイ、サイン!」
パリに着いたばかり、良く知らない人の家に呼ばれ、
物件の持ち主もそこにおらず、「ハイ、サイン!」かぁ~、、
これって、アパルトメントの契約書だと思って言われるままにサインをしたら、
実は人身売買の契約書で、モロッコとかドバイとか
 (モロッコやドバイの人ゴメンナサイ)に売られて
髭もじゃのおじさんたちの前でベリーダンスの衣装を着せられ
半裸で踊らされたりするんじゃないか?イヤ全裸だったら、、無理!
考えれば考える程、悪い想像が膨らむ。
そんなの大変だぁ!と、真剣に思った。
なので前もって調べておいた。
私は親の躾もあって結構用心深い性格をしている。
そのうえ想像力ならぬ妄想力ならピカイチの私はこんな事もあろうかと思い、
賃貸約契約書とか賃借人とか火災保険とかの、
フランス語単語をメモしておいたのだ。
部屋の隅でジュンコにタメ息つかれながら、
必死の形相で日仏仏日辞典をパラパラとめくる。めくりまくる。
アパルトメントの賃貸借契約書にありそうな文言を拾って、
どうやらモロッコにもドバイにも売られる心配はなさそうなので、
サインを済ませ鍵を受け取った。

私は生まれてこのかた鎌倉の実家を離れた事がなかった。
初めての一人暮らしが始まる高揚感を感じつつ荷を解き、
ソファーに腰を深く沈めた。
パリに到着以来、やっと少しだけ落ち着いた気持ちになった。
けれどもその時の私は知る由がなかった。
これから起きる様々な苦難の道のりを、、、(à suivre)

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ひとつぼし kei
父母共にデザインの仕事をしていたこともあり、物心がついた頃から絵を描くことを始めた。SNSに投稿することで人との繋がりを求め水彩絵の具とデジタルを用いて、ありふれた日常を色彩豊かにポップに表現。現在は個展やSNSなどで活動している。近畿大学文芸学部 版画科卒業 https://kei333.amebaownd.com