文=小松めぐみ

名画に囲まれた空間に、広いテーブルと椅子をゆったりと配置したダイニング。全60席。

死ぬまでに一度は味わいたい

 2020年の春は新型コロナウィルスで生活が一変してしまった。緊急事態宣言を受け、多くのレストランが休業している。以前のように外食を楽しめる日がいつ戻ってくるかは、予想できない状況だ。ここまで逼迫する少し前、死ぬまでに一度は味わいたいと思っていた海亀のスープを飲むため、日比谷の「アピシウス」に出かけた。

 海亀のスープは、19世紀後半にイギリスやフランスの貴族に愛された高級料理。その存在を初めて知ったのは、1987年に公開された映画『バベットの晩餐会』がきっかけだった。公開当時、小学生ながら食に強い好奇心を持っていた私は海亀を食べるということに衝撃を受け、この映画とスープのことが記憶に刻まれた。以来、カエルやイラブーやスッポンなどを食べる度に「海亀はどんな味なのだろう?」という思いが頭をかすめていたが、同じ興味を持つ友人を探す努力は怠っていた。そこで一人で行こうと意を決し、「アピシウス」に問い合わせると、幸いなことにランチの予約を受けてくれた。

 「小笠原産母島の青海亀のコンソメスープ シェリー酒風味」は、アラカルトで4,000円(小は3,000円)。6,000円のランチコースにこのスープを追加すると、前菜「旬の海の幸 タルタル仕立て」に続いて、金縁のカップに注いだスープが運ばれた。前菜は帆立などの貝の清らかな甘みがキャビアの塩気で引き立ち、そこにピンクグレープフルーツの香りと酸味、ほろ苦さが加わって、エレガントそのもの。その磨き抜かれた美しさは「青海亀のコンソメスープ」にも通底しており、スープにはさらに凛とした旨味があった。そして少し飲んだだけで体が温まり、活力が出る。このスープ、「アピシウス」ではバブル期より前から作り続けられているという。誕生のきっかけを岩元学料理長に尋ねると、こんなエピソードを教えてくれた。

 

春だけ楽しめる、新鮮な青海亀のクリアな味わい

「小笠原産母島の青海亀のコンソメスープ シェリー酒風味」¥4,000(小¥3,000~)。甲羅の下のゼラチン質のキューブを浮かべて供される。作り方の工程は一般的なコンソメとほぼ同じだが、クラリフェの際に人参は使わない。青海亀という名前は、脂肪が青いことに由来。

 「1983年に開業してから少し経った時、当時のオーナーが店の象徴になるような料理を模索していて、海亀に着目したんです。当時は今ほどいろいろな食材が手に入らなかったのですが、オーナーは自家用船で小笠原諸島によく出かけていたので、現地で昔から食べられていた青海亀を使おうということになったんですよ。スープを作るにあたって、古い料理書をひもときました」(岩元料理長)

 海亀はワシントン条約で絶滅危惧種に指定されているが、小笠原諸島では現在も年間135頭の制限内で雄の捕獲が認可されている。1頭約150kgに及ぶ青海亀は現地の漁師が解体しているが、「真水をかけながら解体すると風味が消えてしまうため、海水をかけながら行うのがポイント」だとか。「アピシウス」では、母島の専門の漁師から解体した青海亀を送ってもらい、3日間かけてスープにしているという。岩元料理長によると、頭と前手羽、後ろ手羽を煮て出汁を取る1日目の工程では、「エッと思う臭いが出る」とのこと。完成したスープからは想像がつかないが、2日目に出汁を濾し、3日目に正肉と香味野菜、香辛料を加えてクラリフェする(澄ませる)うちに臭いが消えるのだろう。仕上げに加えるのはシェリー酒だけで、調味料は一切足さないという。ちなみに3・4月はフレッシュな青海亀を使えるが、他の時期は冷凍の青海亀を使っており、味を比較すると「クリアさが違う」そうだ。

 

「バベットの晩餐会」公開は1987年

 最後になってしまったが映画の紹介をしておくと、「バベットの晩餐会」が公開されたのは1987年。主人公のバベットはパリ・コミューンで全てを失った女性料理人で、北欧の寒村に逃れ、老姉妹の家政婦として仕えている。そうして十数年経ったある日、宝くじに当たったお金で晩餐会を開き、かつてパリで出していた料理を振る舞う。招かれたのは敬虔なクリスチャンの村人だが、一人だけ食通の将軍が紛れており、海亀のスープを飲むと「これは本物の海亀の味だ」と満足する。

 海亀は、冷蔵技術も流通も発達していなかった18世紀、英領西インド諸島から生きたまま船で運べるために重宝された食材。なかでも最も美味とされたのが青海亀だが、乱獲で激減したため、イギリスでは牛などの代替食材を使った「疑似亀スープ」(Mock Turtle Soup)という料理が生まれていた(※)。映画の中の将軍が「本物の海亀の味」というセリフは、この辺の事情が関係しているのだろう。バベットが料理長を務めていた設定の高級レストランの名前「カフェ・アングレ」(英国亭)には、当時のパリでイギリスの上流階級が憧れられていたことが暗喩されている。

 映画は、将軍がうずらの料理を見て「これはパリの『カフェ・アングレ』の女性料理長のオリジナル料理だ」と驚くあたりから急展開し、様々な伏線がつながって大団円を迎える。そしてバベットは、パリの動乱で職を失った芸術家の友人の「私に最高の仕事をさせてくれ」という叫びを、共感と共に思い出す。現在コロナ禍で活動を自粛している料理人の方々も、おそらく同じ思いをされているのではないだろうか。多くのレストランの営業が再開する日が待ち望まれるばかりだ。

深いボルドーの壁にビュッフェの絵が飾られた個室「サロンガーネット」(4名~8名)。個室料¥12,000。

※「不思議の国のアリス」には頭と足が牛の亀(Mock Turtle)が登場するが、これは「疑似亀スープ」にちなんでいる。