文=鈴木文彦

©Nacása & Partners Inc. / Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès

アートとは何か?という問い

 アートが技術に近かったころは、アートとは何か?という問いは、そこまで深刻な問題ではなかっただろう。

 靴職人が使う無骨なハンマーをつくるのと、教会の宗教画を描くのとは、同じアートだ、というのはさすがに中世のヨーロッパ人でも抵抗があったかもしれないけれど、それらはいずれも、人間の手をつかって、専門的な技術、職人芸によって生み出されるものだし、生み出されるものは、人間のなにがしかの役に立つものだ、という点では同じだ。

 ところが、18世紀ごろから、科学技術や市民社会が台頭してきて、モノづくりのスタイルが変化し、アートとは何か、という問いが顔をのぞかせ始める。印刷技術が発展すれば、写本は徐々に廃れていくし、型に入れて、同じ形の金属やガラス、あるいはコンクリートを大量につくれるようになれば、ギリシャの神殿を、技術的に再現できる日もやってくる。正確な遠近法は画家の修練の成果か、カメラのレンズの精度のたまものか。

 さらに、国の名誉のため、信仰のため、人間の正しさのため、といった価値観も、だんだん信じられなくなってきて、アートと商品の境界線は、そもそもそういう境界性をもうけるべきかどうかまでふくめて、曖昧になる。

 相対化、複数化の顕在化によって、アーティストは、自身がなにをもってアーティストであるかを証明できず、アートはなぜそれがアートなのかを証明できない。

 現在、銀座メゾンエルメス フォーラム 8階にて開催されている、「エキシビジョン・カッティングス」(5月11日現在休館中)という展覧会で流れている、「アンチ・ミュージアム:アンチ・ドキュメンタリー」という30分程度のドキュメンタリー映像作品は、自らの選択として、アーティストが活動を停止、あるいは展覧会を閉鎖した意図や歴史が描かれる。そこでは、19世紀以降、アーティストが問い続ける、アートとは何か、という問題への、複数のアーティストによる、様々な回答が示される。だから、この映像は、アートへの入り口としても、価値ある作品だ。

 

キュレーター、マチュウ・コプラン初の展覧会

 この映像作品をふくむ展覧会、「エキシビジョン・カッティングス」をキュレーションしたのが、ロンドンを拠点にするキュレーター、マチュウ・コプランという人物。彼の展覧会は日本では今回が初めてなのだけれど、4月23日に開会して、4月25日から、緊急事態宣言をうけて、いったん、延期という閉鎖をされてしまった。

 閉鎖した展覧会を扱った映像作品が上映される展覧会が閉鎖される、という、奇妙な巡り合わせに見舞われたマチュウ・コプランは、肩書上はキュレーターとなるけれど、展覧会というものを作品とするアーティスト、といったほうが、わかりやすいだろう。彼が共同キュレーターとして仕掛けた、2009年にパリのポンピドゥー・センターで開催された展覧会「空虚、回顧展」は、展覧会場が空っぽだったことで話題を呼んだ、マチュウ・コプランの代表作のひとつだ。

 現代のアーティストが、自らがなにをもってアーティストであるかを問うように、マチュウ・コプランは、展覧会とはなにかを展覧会をもって問う。

 今回、マチュウ・コプランが用意した回答は、有機的な営み。そして、環境だった。

 エキシビジョン・カッティングスは、小さな展覧会の集合体のような性質をもっている。

マチュウ・コプランによる「エキシビジョン・カッティングス」のためのスケッチ。(2021年)Sketch for “Exhibition Cuttings” | 2021 | Courtesy of Mathieu Copeland

 ここまで話題にしている、ドキュメンタリー映像はドキュメンタリーだから、コラージュ的性格をもっているし、その上映スペースのために展覧会は分断され、その仕切のそばには、この展覧会唯一の絵画作品、フィリップ・デクローザのというスイス人作家の無題の絵画作品があり、各所に設置されたベンチは、それぞれに形が違うことで、ひとつひとつが作品であり、それらが集合していることで展覧会の様相を成す。会場のもっとも広いスペースには、この展覧会のために作曲された、ミニマル・ミュージックの巨匠 フィル・ニブロックによる音楽が流れているけれど、その音楽は6曲あり、それぞれ違う演奏者が演じている。さらに、その音をだすスピーカーの台座も複数あり、それぞれが作品だ。

 

土に植えられた柑橘の木

 こうなってくると、銀座メゾンエルメスならではの、広いガラス壁から入る陽光もまた、時間によって表情を変える作品のようだし、さらに、このスペースでもっとも特徴的なのは柑橘の木が、土に植えられていることだ。

©Nacása & Partners Inc. / Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès

 この木と土は、自然農法の提唱・実践者である福岡正信氏の農園、福岡正信自然農園からもってこられた甘夏と土で、土には、福岡正信氏が生み出した、様々な種を混ぜた「粘土団子」という、種の集合体も含まれている。展覧会の会期中、ここでは甘夏の木が、そして粘土団子のなかの種子が、生きて育っていくだろう。

 こうして、作者も背景も形式も違う複数の、もはや作品とも言えないようなものも含まれた要素が、この場には存在している。それらは、もとあった文脈、あるいは環境から、カットされてここに持ち込まれたものだ。だから、この展覧会のタイトルは「エキシビジョン・カッティングス」というのだろう。そして、それらは、ここで有機的な環境をつくる構成要素となる。

 マチュウ・コプランは、「この有機的な環境は、過去を振り返るものであり、それを未来にどうつなげていくか、フィードバックのループでもある」と表現する。

 展覧会とはなにか? アートとはなにか? マチュウ・コプランは、この常に問われ、常に答えられる問を、ループなかに封じ込めることで、ひとつの回答となした。