フランス革命で廃墟になっていたノートル・ダム大聖堂は、1864年に再建された。ヴィオレ・ル・デュックの設計で尖塔と屋根とそれを支える梁は、中世の建立時と同じ素材が用いられた

樫の木と鉛が燃えた

「ノートル・ダムで火災が起こっています」というニュースがラジオ局『フランス2』から流れ、そんな馬鹿なことがあるはずがない、と思った瞬間、ヘリコプターの音が聞こえてきた。パリ上空は飛行雲ができるほどの高度は別だが、低空での飛行は禁止されている。だから大事故、あるいはテロでなければヘリの騒音が聞こえることはない。ニュースは本当に違いないと確信し、セーヌ川にかかるトゥルネル橋を目指した。

 この橋にはノートル・ダムの一番美しい後ろ姿を眺めるための半円形のテラスがあり、パリ市の守護聖女ジュヌビエーブの彫像もある、市民には馴染みの場所だ。微風だったから、ノートル・ダムから巨大な白い煙がわずかに左岸の方に傾きながら、立ち上っていた。この橋の上で静かに見上げる人々の前で、突然火の手が大聖堂の下から吹き上がってきた。

 煙が出てから炎が立ち上るまでに、数十分もかかった。白い煙、火炎、グレーの煙、火炎、が繰り返し数時間も続いた。鎮火に15時間かかった、とパリ市消防局の発表があったのは翌日の夕刻であった。だが不思議なことにたった300mの距離にもかかわらず、火事特有の焦げ臭い匂いも、何かが崩れ落ちる音もなかった。

 なぜ炎と煙が交互に立ち上ったかは、おそらく屋根が鉛で葺いてあり、その下に樫の木の梁がめぐらされていたからに違いない。電気部品を組み立てるのに使うハンダは鉛と錫の合金だが、鉛だけでも柔らかく、加工しやすい素材でもある。ローマ時代には水道管、器、調理器具まで鉛でできており、モニュメンタルな建造物の屋根や壁面に古代から使われてきた馴染みの建材でもあった。

 ノートル・ダムの屋根も5㎜程度の厚さに伸ばした鉛の板を切り、現在のトタンと同じように折り、組み合わせ、木釘で留め、隙間なく屋根に貼ってあった。融点は327℃と低い。火災直前までノートル・ダムは屋根付近の改修作業をしていた。燃え尽きた尖塔の近くに工事用の櫓を組み、エレベータが組み込んであった。工事用の電気配線の不具合から発火したとすれば、その熱が近くの屋根の鉛を溶かし、溶け出した鉛が木材にまとわりつき、乾燥した樫の木を炎に変えた、と推察できる。熱が尖塔中心から次第に屋根の先端に向い、煙と火炎を繰り返し発生させたとみて間違いではないだろう。

 

シュリー司教が夢見た大聖堂

 フランスという国家がようやく姿をあらわした1160年、司教シュリーはその第一の都市パリに相応しい大聖堂が必要だと考えた。ルイ7世王も、貴族階級も、この計画に賛同した。彼らは寄附金だけでなく、作業の手伝い、専門知識なども提供した。完成まで100年以上もかかったこの大工事には石工、屋根葺き職人、大工、家具職人、ガラス職人など、などあらゆる職種が団結した。

 シュリー司教はこの大聖堂の建設にあたり、私財を投じた。大聖堂建設作業は1163年に始まり、1225年に完成した。だが、彼は完成を見ないまま1196年に死去している。死を目前にして、彼は仮囲いしかかかっていなかった大聖堂の屋根を心配して、その材料である鉛を買うために5000リーブルもの莫大な金額の遺産を充てると遺言に書いた。シュリー司教の姿勢に共感し、市民も建設現場の作業に馳せ参じたという。

 この遺産を使って用意された厚さ5㎜の鉛の板は、長さ194.904cm(王の足1足分=32.484cm×6)の長方形の板1326枚。総重量にして210tだった。屋根の下には尖塔アーチが交錯する構造が採用された。そのアーチの上に木の梁を組み、その上にかける屋根の傾斜は55度という急勾配だった。

なぜ、敢えて屋根に鉛を使ったのか

 19世紀のノートル・ダムの大規模な改築・修復工事にあたり起用された若き建築家ヴィオレ・ル・デュクは、中世建築をよく理解していたにもかかわらず、「建造物を修復することは、保存ではなく、補修でも再現でもなく、今までになかった完璧な状態を回復することだ」と宣言して修復対象の建物に彼自身の解釈を加えた。そして、建造時にはなかった高い尖塔をつくりあげ、自分の像を加えた。

 だが屋根の素材、鉛はそのまま使った。違いは厚さを5㎜から2.82㎜に薄くし、1平米あたり57kg だったのを32kgにしたことだ。桟という細い棒に鉛の板を留め、鉛をハンダづけするといった新しい試みも行っている。

 同時代には今私たちが目にするパリの姿を造り上げたセーヌ県知事、ジョルジュ・オスマンも大活躍している。彼の都市開発はあまりにも有名だが、その功績は屋根にもある。現在パリの建物の屋根の70%の色はグレーで、アルドアーズという石かトタンで葺いてある。薄い鉄板に亜鉛の膜をつけたトタンこそ、産業革命で量産され始めた革新的な建材だった。

 トタンは水を吸い込まない。だから雨はすぐ流れ、屋根は石より少ない傾斜で済む。石を使えば50度の勾配が必要だったのが、20度でもよくなる。ということは、高さ制限があるパリのアパートの屋根の中に、もう一部屋できる。こうして天井が低いお手伝いさんの部屋が生まれ、地上階は貸店舗、2、3階が大家の住居、4、5階を賃貸、そして6階にお手伝いさんの部屋、というアパートの姿になった。

 トタンはパリの近代都市計画にとって重要な建材革命の一翼を担っていた。さらに、オスマンは鉄の利用も促した。階段手摺、バルコニー、そして構造材にも鉄が盛んに使われ、同じ時代にエッフェル塔も作られている。

 実はヴィオレ・ル・デュクも新素材推進派だった。19世紀末には鉄を使ったコンサートホールや住宅のデザインをしている。当然、新素材トタンにも精通していたはずだ。それをノートル・ダムに利用しなかったのは残念だ。鉄を主原料とするトタンだったら,被害はもっと少なかっただろう。

 ヴィオレ・ル・デュクはトタンを安くて庶民的な素材と見なし、モニュメントには相応しくないと避けたのか、あるいはデザインに関しては「今までになかった完璧な状態を回復することだ」と宣言する一方で、使用する素材についてはシュリー司教が私財を投じた、歴史、中世の重みに敬意を払ったのかも知れない。

 

(第2回に続く)