文=藤田令伊 写真提供=沖縄県立博物館・美術館

安谷屋正義《望郷》1965年

「ニシムイ」とは「北の森」という意味

 今年は沖縄が日本に復帰して50年という節目の年である。ご承知の通り、沖縄には数々の文化があり、たとえば、染織の紅型、陶芸のやちむん、琉球舞踊、漆芸の沈金や螺鈿などなど、さまざまな芸術が歴史に育まれ、先人たちに磨き上げられ、世界に誇る成果として花開いている。

 そんな多彩な沖縄の文化・芸術のなかから今回は「ニシムイ」の美術を紹介したい。というと、「ニシムイってなんだろう?」と思う向きもあるかもしれない。ニシムイとは漢字で書くと「北森」となる。「ニシ」は沖縄の言葉で「北」を指し、「ムイ」は「森」である。「北」が「ニシ」というのもややこしいが(このため、たまに「西森」と間違って表記されることがある)、「北の森」という意味の言葉で、首里城の北の森のほうで生まれた美術なので「ニシムイ」といわれている。

 悪夢の沖縄戦を経て、戦後、復興に向かった沖縄で、職を失った若手画家たちが助け合って生活しようと現在の那覇市首里儀保町四丁目に共同体をつくり始めた。1948年のことだった。この共同体に参加した画家が、のちにニシムイの画家たちと呼ばれるようになる(また、この共同体のことをニシムイ美術村と今日呼んでいるが、当人たち自身は「美術村」と称したわけではなかったらしい)。

 彼らの主な“お得意さま”は米軍人たちであった。絵葉書や絵画などを描き、タバコと物々交換し、得たタバコを換金して収入に充てたという。

 共同体としての活動は短命だった。49年には台風が襲来して共同体の家々が倒壊し、51年頃になると琉球大学などに職を得て移り住む者が出てきたからだ(共同体がいつ解散したかは必ずしもはっきりしない)。しかし、画家たちはその後もそれぞれの道を歩みつつ、戦後沖縄の芸術振興に大きな役割を果たしていった。

 さて、ニシムイの画家たちとひと口にいっても、表現は多彩である。安谷屋正義(あだにやまさよし)は、ちょっと乾いた画風で世情を織り込んだ絵を描いた。

《望郷》は、現実と非現実の境が曖昧な印象で、半ば抽象画のように風景が描かれている。右側にどうやら一人の人間が立っており、背景はフェンスか何かのように見える。あなたはこの絵をどう見るだろうか。

 私には、この人物はアメリカ兵に見える。そして《望郷》というタイトルと重ね合わせると、つい征服者としての側面ばかりを見てしまいがちな彼らにも、私たちに通じる心情があることに気づかされる。この絵が描かれたのはベトナム戦争の真っ最中である。

安次嶺金正《那覇の市場》1950年

 安次嶺金正(あしみねかねまさ)は沖縄の人々の素のありさまを描いた。《那覇の市場》は、現在の開南から壺屋あたりと推定されるが、大勢の市民が買い物に繰り出している様子が活写されている。戦後まもない時期の作だが、市場の活気のなかに復興への勢いが感じられる。

名渡山愛順《白地紅型を着る》1946年

 名渡山愛順(などやまあいじゅん)は沖縄の女性の美しさを描いた。《白地紅型を着る》は、白地で清楚涼しげな紅型を着た女性がポートレートで描かれている。髪は沖縄風の結い方で、清々しく、まさしく沖縄の美を感じさせる。

 沖縄県立博物館・美術館にはニシムイの画家たちの作品が多く所蔵されており、常設展や企画展でその一端を鑑賞することができるので、機会があればぜひ見に行っていただきたい。きっと、心に迫る何かが感じられるはずである。

 ニシムイの画家たちが共同体を営んだ跡地は、現在、那覇市によって「ニシムイ・ポケットパーク」として整備されている。といっても、住宅街のなかのごくふつうの小公園にすぎないが、それでもニシムイの絵のいくつかが複製碑板にして設置してあり、かろうじて往時を偲べるようになっている。併せて訪ねるのも一興だと思う(ゆいレール儀保駅から徒歩5~6分)。