文=鷹橋 忍

御霊神社の紫陽花 写真=PIXTA

本当は挙兵当初から賴朝に仕えていた?

 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の十三人の合議制のメンバーの一人、中村獅童演じる梶原景時を取り上げたい。

 梶原景時とはどのような人物で、どのような最期を迎えるのだろうか。

 梶原氏は、その名の通り、相模国の鎌倉郡梶原郷(鎌倉市梶原)を本拠とした一族である。後三年の合戦で活躍した鎌倉権五郎景正(かまくらごんごろうかげまさ)を、先祖とする。

 梶原氏は、大庭氏や、長尾氏などとともに、「鎌倉党」と称された。

 景時は梶原景長(一説には景清)の子として誕生したが、生年は不詳である。

 上級貴族の徳大寺家に仕えていた経験があり、京都の貴族社会にも人脈を持っていた。歌道や音曲などの文化的素養も高く、弁舌に優れ、思慮深かったという。

 治承4年(1180)8月に源頼朝が挙兵した際には、景時は國村隼が演じた同じ鎌倉党の大庭景親に属し、平家方であった。

 頼朝は石橋山の戦いで、この大庭軍に大敗を喫する。賴朝は敗走し、山中に潜んだ。そのときドラマでも描かれたように、景時が頼朝を見逃したという逸話が、鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』や、軍記物語『源平盛衰記』などに記されている。

 逸話の真偽は定かでないが、『吾妻鏡』によれば、このあと景時は平家方から離叛する。

 同年12月頃、阿南健治演じる土肥実平に連れられて頼朝に帰順、翌養和元年(1181)正月11日、初めて頼朝に参仕した。そのとき頼朝は、景時が文筆に携わる者ではなかったが、弁舌が巧みな武士であったため、大変に気に入ったという。

 いっぽうで、景時は賴朝の挙兵当初から、賴朝に従っていたことを窺わせる文献も存在する。天台座主・慈円が著した歴史書『愚管抄』巻第五には、「治承4年に事を起こして打って出た賴朝は、梶原平三景時、土肥次郎実平、舅の伊豆の北条四郎時政らを率いて、東国を討ち従えようとした」と記されているのだ(『愚管抄 全現代語訳』 慈円 大隅和雄訳)。

 いずれにせよ、景時は実務に長けた武士として頼朝に重用され、「頼朝の懐刀」といえる側近中の側近となっていく。

 景時は養和元年に大倉御所内の小御所・御厩の造営奉行、続いて、鶴岡八幡宮の若宮造営奉行を務め、翌寿永元年(1182)7月には、北条政子の出産に伴う雑事を取りはからうように命じられている。

 就任時期は不明だが、「侍所」の所司(次官)にも任じられた。

 侍所は、御家人統制を職掌とする幕府の重要機関であり、別当(長官)は横田栄司演じる和田義盛が務めていた。

 寿永2年(1183)にはドラマでも描かれたように、佐藤浩市演じる上総広常を暗殺するという、汚れ役も引き受けている。