文=鷹橋 忍

広元により再建されたといわれる古刹、長谷寺 写真=アフロ

出世の限界を感じて鎌倉へ?

 今回は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第12回「亀の前事件」で初登場した、「13人の合議制」のメンバーの一人である、大江広元を取り上げたい。

 源頼朝に近侍していても、広元は武士ではない。京下りの官人の一人だ。広元ら官人は、鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』では、「文士」と称されている。

 文士とは、文書行政で主君を支える文官を指す。

 武士の政権である鎌倉幕府だが、武士だけでは政権は維持できない。行政や裁判など実務をこなすには、文筆に長けた文士が必要であった。そのため頼朝は京都から多くの文士をスカウトしている。広元は、その代表的な人物だ。

 今後ドラマでも活躍が予感される広元だが、鎌倉に下向(京下り)するまでは、どのような人生を送ってきたのだろうか。

 まず、大江広元の名で知られているが、当初は「中原」姓を名乗っていた。「大江」に改姓するのは、建保4年(1216)、69歳のときのことである。

 広元の生年は諸説あるが、久安4年(1148)とされる。これは嘉禄元年(1225)に78歳(数え年)で没したとする『吾妻鏡』などの記事から逆算して導いたものだ。

 出自に関しても複数の説が存在するが、実父は大江維光(これみつ)で、中原広季(ひろすえ)の養子になったとみられている。

 大江氏は文章道(漢文学)を、中原氏は明経道(儒学)、明法道(律令)を家学としていた。広元は双方の学問を、継承できる環境にあったのだ。

 学問に秀でた広元は、優れた成績の者が選ばれる「明経得業生」となり、仁安3年(1168)、21歳のときに、明経得業生が任じられる官の一つである縫殿允(縫殿寮の三等官)に任官している。

 嘉応2年(1170)には朝廷の公文書を扱う「外記職」である権少外記に、翌承安元年(1171)には1ランク昇進して、少外記となった。

 寿永2年(1183)には、従五位上に叙されている。

 官人としての道を歩んでいた広元だが、広元の家柄では、京都での出世には限界があった。

 広元は京都を後にし、頼朝が武士政権を打ち立てた新天地・鎌倉を目指すことになる。