文=三村 大介

 東京駅丸の内駅舎 前田明彦, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

「Ecce Mono(このサルを見よ)」

 みなさんは「史上最悪の修復」と呼ばれ、世界中で話題になった壁画のことを覚えているだろうか。「毛むくじゃらのサルのよう」と酷評されたキリスト像のことを。

スペインで話題になった「史上最悪」の修復画  写真提供=Centro de Estudios Borjanos/Abaca/アフロ

 この「事件」は、2012年、スペイン北東部のボルハ市という田舎町で起きた。

 この町の教会の柱には19世紀の画家、エリアス・ガルシア・マルティネスによる『Ecce Homo(この人を見よ)』というフレスコ画が描かれていたのだが、その壁画は湿気で劣化がかなり進み、痛ましい姿になっていた。すぐにでも誰かが修復しなければならないほどの状態、そんな危機的状況を嘆き「では私が!」と、その作業に着手する人が現れた。それがなんと、地元のアマチュア風景画家、しかも絵画修復については全くの素人である80歳の女性だったのだ。

 果たして、彼女がこの修復を許可なく勝手に始めたのか、それとも正式にオファーを受けたのかは、今となっては無意味な議論となってしまうが、いずれにせよ、彼女がその純粋な道義心や信仰心から修復に挑んだというのは確かなようだ。

 しかしである。残念ながらというか、やはりというか、修復の知識や技術も全くない彼女が仕上げた壁画のキリスト像は、原型を留めない無残なものになってしまったのだ。結果、「似合っていない外衣を着た毛むくじゃらの猿のスケッチに変わってしまった」と嘆き、批判されるわ、『Ecce Mono(このサルを見よ)』と嘲笑、揶揄されるわの大騒ぎに。他にも多くの苦情が教会に殺到してしまい、ついにはボルハ市当局が原状回復へと動き出すほどの大混乱に陥ってしまう。

 ところが、事態は思わぬ方向に進展する。

 この「惨状」が国内外で報道され大きな話題になると、ネット上では

「彼女が元の壁画に与えたダメージは大きい。でも彼女の無償の愛に感動した」

「誰もキリストが人間でなければならないとは言っていない」

「この“善意の修復”は既にこの壁画の歴史の一部だ」

 といった肯定的な意見にあふれ、「壁画を元に戻さないで!」と署名活動が始まり、あっという間に2万人近くの嘆願書が集まったのだ。

 また、普段は静かな教会には「芸術的災難」に見舞われた作品を一目見ようと、大勢の見物客が押し寄せた。教会を運営する慈善財団によると、その年1年で57000人がこの教会を訪れたそうだ。通常は6,000人程度だったというから約10倍である。

 その後、同財団は、訪問者1人につき1ユーロの入場料の徴収を始め、その入場料収入はフレスコ画の保存や慈善活動の費用に充てている。さらには、ワインボトルのラベルからマグカップ、Tシャツまで、ありとあらゆる商品を対象にした『Ecce Mono(このサルを見よ)』の著作権料もかなりのものとなり、教会や地元に思わぬ経済効果をもたらしているようだ。

 誰も予想できなかった、なんともハートウォーミングな展開。「おばあさんのピュアなハートが招いた奇跡」とサブタイトルが付きそうな物語である。

壁画の前で記念撮影する人々 写真=SOONimage/アフロ

 とはいえ、やはりこれはケガの功名、ヒョウタンから駒といったかなり珍しいケース。現実はというと、この件以降も、素人による「事件」は世界各国、あとを絶たないようで、アニメの主人公のようになってしまった聖ジョージ像や、ただのおばさんのようになってしまった聖母マリア像など、修復に失敗した芸術作品の事例が多数発生している。

 そして、それらはいずれも、プロによる再修復がなされたり、全く手の施しようがないくらいの悲惨な状況になってしまったため訴訟になったりと、本当の「悲劇」になっているようだ。故意にボルハ市の二番煎じを狙ったのではないだろうし、どれも善意のもとになされたことではあろうが、やはり『この人を見よ』のようなドラマはそう簡単に起こらないということである。

 これらの例を見るまでもなく、保存そして修復をどのように考え、どのように施すべきかということは、あらゆる分野・領域で非常に重要な課題であり、芸術作品と同じ、いやもしかするとそれ以上に、現在の建築や街、とりわけ新陳代謝の激しい街・東京においては否応なく直面しうるシビアで重大な問題である。

 さて、その実情はいかに?それを知るには、「保存建築の展示場」と言っても過言ではない丸の内界隈は打って付けのエリアであり、中でも今回採り上げる《東京駅丸の内駅舎》はそのシンボル的な存在である。