DIC川村記念美術館の「ロスコ・ルーム」 撮影:渡邉修
©️1998 Kate Prizel & Christopher Rothko / ARS New York / JASPAR,Tokyo C3036

ビジネスパーソンに必要な教養としての美術

「ビジネスパーソンの教養」ということを念頭において、日本にある「すごいアート」を紹介していくことになった。「ビジネスマンパーソンの教養」なのだから、これを知っておいてほしい、あるいはこれぐらいは知らないと恥ずかしい、といったアートを毎回取り上げていくことになろうかと思う。

 日本のビジネスパーソンは勤勉で真面目でけっこうなのだが、残念ながら、人間としての“幅”が狭いという弱点があるように思う。私自身、かつては会社員だったので、それがよくわかる。現実問題、とにかく目の前の仕事を片づけるので精一杯で、「教養」を身につける余裕などなかなかない。その結果、“幅”が狭くなってしまうのだ。

 だが、21世紀のいまやそれでは通用しなくなりつつある。自分なりにであっても、世界の動向を語れなければ恥ずかしい思いをすることがあるし、歴史や芸術の話題についていけなければ無粋な奴と見られかねない。

 あるいは、最近はアートを活用したセミナーで社員のスキルアップを図ったり、アーティストと提携して新しいビジネスを始めるといった企業が増えている。もはやビジネスパーソンは否応なくアートとつき合っていかなくてはならない状況といっても過言ではないのだ。本連載が、そうした方面で少しでも役立てばと願う。

意味がわからなくても「心が落ち着く」

 さて、1回目に紹介するのはマーク・ロスコである(あなたはロスコを知っていただろうか?)。あれこれ語る前に、まずは素の眼でロスコを見てもらいたい。冒頭の写真は千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館の「ロスコ・ルーム」という展示室である。名前の通り、ここはロスコのためだけにつくられた空間になっている。

 少し照明が落とされた部屋に、7点の大きな絵が鑑賞者を取り囲むように並べられている。絵はそれぞれ幅3~4m×高さ2m半ほどもある大作で、暗赤色の地に赤や黒、オレンジで門あるいは窓枠のようなものが描かれている。具象画ではなく抽象画なので、意味はよくわからない。実際にこの場にいたら、あなたはどんな印象を覚えるだろうか。想像を逞しくしてイメージしてもらいたい。

 よく耳にするのは、「ここにいると心が落ち着く」といった感想である。やや暗めの空間となっているため、まるで深い海の底のような静かで厳かな雰囲気が感じられ、そこに不思議な絵があることで、一種、瞑想的な感覚が抱かれるのである(ロスコの作品は「瞑想する絵画」といわれることもある)。ロスコ・ルームでの体験は言葉では説明し切れないものがあるので、論より証拠、一度自身で体感してもらうのがよいと思う。

“意識”より“無意識”が目覚めるアート

 ロスコの作品には、意識の領域で理屈によってではなく、無意識の領域でダイレクトに観取される何かがあるような気がする。意識と無意識というと、一般には意識のほうが人間の認知活動の中心を担っていると理解されていると思うが、近年、認知科学の世界では無意識に関する研究が熱く盛り上がっている。旧来考えられてきた以上に無意識の領域は重要な役割を果たしていて、人間にとって意味あるものではないかという見直しがなされつつある。

 ロスコは“無意識のアート”といえるかもしれない。そして、ロスコ・ルームはその特質がいかんなく発揮されるべき空間である。というのは、ロスコは自分の作品がどう見られるかに強いこだわりを持っていたアーティストで、ロスコ・ルームはロスコ本人が希求していた空間が再現された特別な部屋だからである。

 そもそも、ここに展示されている絵は、ニューヨークのシーグラムビルに新規開店するレストラン「フォーシーズンズ」に飾られるはずのものであった。ところが、完成したレストランを見に行ったロスコは店の雰囲気に幻滅し、絵の引き渡しを拒否したというエピソードが残っている。

 マーク・ロスコは第2次大戦後、50年代のアメリカで花開いた抽象表現主義を代表する画家と位置づけられている。抽象表現主義は、ロスコのように大きなキャンバスに描くことで「絵」というより「場」という表現を追究したり、「見る」というより「体験する」という新しい鑑賞のかたちを生み出したグループである。ジャクソン・ポロックやバーネット・ニューマンといった人たちがいる。だが、ロスコ本人は抽象表現主義の画家と見られるのを嫌っていた。

 ロスコの作品のみで構築された展示空間は、ここDIC川村記念美術館のロスコ・ルームのほか、ロンドンのテート・モダン、ワシントンDCのフィリップス・コレクション、ヒューストンのロスコ・チャペルの合計4カ所しか世界に存在しないから、日本に在住する者は恵まれている。こんどの休みに訪れてみてはどうか。

 ただし、義務的に見に行っても、おそらくは得られるものは少ない。アート鑑賞とは、まずは「愉しみ」として、好奇心に目を輝かせて作品と向き合うものである。そして、ロスコ・ルームのなかで自分は何を感じ取るか。それがアートとつき合っていく第一歩である。