文=難波里奈 撮影=平石順一

1955年(昭和30)創業の「喫茶 穂高」。山小屋を彷彿とさせる店内。

遠くの山より近くの純喫茶

 あまり経験は多くないが、何度か登山をしたことがある。今より若く体力もずっとあった頃に、富士頂上からの景色もこの目で見た。登山に夢中になっている友人からたまに聞く「山頂で飲む珈琲」の話はいつもとても魅力的で、「いったいどれだけ美味しいのだろうか」と想像してはうっとりしている。

 できることなら今すぐ近くの山へ出掛けていって、その味わいを試してみたい衝動にかられるが、そうもいかない勤め人ゆえ労働を終えたあとに中央線に揺られて御茶ノ水駅へ向かい、ある純喫茶を目指す。

店内は2004年(平成16)に改装したが、表の革製の看板「穂髙」は当時のもの

 改装工事を経て新しくなった聖橋口改札を出て左側へ少し歩くと、山小屋のような外観が視界に入る。それは1955年から営業している「穂高」である。マスターの粟野芳夫さんご一家が営むアットホームな店で、粟野さんのお母様が山好きだったことから、中部山岳国立公園の飛驒山脈にある奥穂高岳を主峰とする山々の総称の「穂高」と命名されたそう。

店内に飾られた山の絵。左は中村好至恵さんの「剣岳」。右は版画家の山中現さんのもの。毎月1回のペースで替えられている

 人気の窓際席からは眼下をせわしなく通り過ぎる電車たちや駅のホームを眺めることができ、手前の庭にはもみじ、桜、橘と季節によって違った表情を見せる樹木や、たまに出没する蛇やとかげたちとの遭遇を楽しむことができる。控えめな照明の中で若草色のソファに沈み込んでふぅと息を吐くと、都会の真ん中にも関わらず、静かな山の中に佇んでいるような穏やかな気分になる。

窓を隔てた向こうはJR御茶ノ水駅のホーム。電車のアナウンスも心地よいBGM