文=鷹橋 忍

カステル・デル・モンテ 写真=PantherMedia/イメージマート

防御力ゼロ?「8」に彩られた謎多き城

 オリンピックもパラリンピックも終わり、明るいニュースも減ってきた。そこで、少しでも縁起の良い話題を——ということで、日本では末広がりの数字として親しまれる「8」に拘ったお城をご紹介しよう。南イタリアのプーリア州アンドリアの郊外に建つ、カステル・デル・モンテ(デルモンテ城)である。

 カステル・デル・モンテはレ・ムルジュ高原の「ルジアの丘」と称される、なだらかな丘の上にポツンと佇む、孤高の城だ。神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世(1194~1250 在位1220~1250)によって、1240年頃から建設が開始された。

 カステル・デル・モンテは、「8」に彩られた、極めて独創的な城である。

 2階建てのこの城は、「丘の上の王冠」とも呼ばれるように、王冠のような形をしている。だが、上から見下ろすと、この城が八角形で成り立っていることがわかる。八角形の中庭を八角形の外壁が囲み、8つの角のそれぞれに、八角形の小塔を配しているのだ。

城の平面図

 八角形の中庭と壁に挟まれた内部は台形の8つの部屋に仕切られており、8枚の葉など8にまつわる装飾も残っている。

城の内部からの眺め 写真=PIXTA

 幾何学的な美しさに満ちたこの8づくしの城は、1996年に世界遺産(文化遺産)に登録され、1ユーロセントの裏面にもその姿が刻まれた。

 一般に、中世の城郭は軍事要塞の役割を担っているのだが、カステル・デル・モンテは軍事目的で建設されたわけではないとされている。

 なぜなら、カステル・デル・モンテの防御力はゼロに近いからだ。城を守る堀はなく、跳ね橋、城壁、矢を射るための窓などの防衛設備も、いっさい持ち合わせていない。城内の螺旋階段も攻める方に有利な左回りで、馬小屋も食糧の保管庫も設けられていなかった。

 では、何のために建てられた城なのかというと、確かなことはわかっていないのだ。

 建築目的が不明の8づくしの城――こんな不思議な城を築いた神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世とは、どのような人物であったのか。

 

「世界の驚異」と呼ばれた天才皇帝フリードリッヒ2世

 神聖ローマ帝国とは、962年のオットー1世の戴冠によって成立した中世のドイツ国家の呼称だ。神聖ローマ皇帝は、キリスト教世界の守護者であり、俗界の最高位である。

フリードリッヒ2世 写真=アフロ

 なぜ、ドイツの皇帝であるフリードリッヒ2世が、南イタリアにカステル・デル・モンテを築いたかというと、それは彼が、シチリア王(在位1197~1250)も兼ねていたからだ。彼はイタリアで生まれ、イタリアで育ち、イタリア語を母語とし、イタリアを愛し、56年の人生のほとんどをイタリアで過ごしている。日本では「フリードリッヒ2世」とドイツ語読みで呼ばれることが多いが、イタリア名での呼び名は「フェデリーコ」という。

 フリードリッヒ2世は1194年に、イタリア中部のイェジーで誕生した。

 父は神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世、母は両シチリア王国(ナポリ・シチリア両王国)の王女コンスタンスで、祖父は、赤髯王(バルバロッサ)の異名で知られる英主・神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世である。

 フリードリッヒ2世は幼いころから聡明で、知的好奇心に溢れていた。歴史、哲学、神学のほか、天文学や数学などを習得している。カステル・デル・モンテの設計にも、フリードリッヒ2世の数学や幾何学の知識が反映されているといわれる。

 語学にも堪能で、ラテン語をはじめ、ドイツ語、フランス語、ギリシア語、アラビア語など9カ国語を話し、7カ国語で読み書きができたという。フリードリッヒ2世は「世界の驚異」と称される知識人であった。

 頭脳のみならず、乗馬や槍術、狩猟など、武芸やスポーツにも並々ならぬ才能を発揮した。まさに文武両道の天才である。

 フリードリッヒ2世の功績のなかで、もっとも知られているのは、「破門十字軍」とも称される、十字軍における聖地エルサレムの回復だろう。

 1228年、フリードリッヒ2世は4万のドイツ兵を率いて十字軍遠征に出発したものの、疫病に罹り、帰還している。教皇グレゴリウス9世は、これを仮病と断じ、フリードリッヒ2世に破門を言い渡している。当時の人間にとって、破門は社会的な死であった。

 翌1229年、フリードリッヒ2世は病が快復すると、破門の身ながらも、再び聖地へと向かっている。

 兵を率いてはいったが、フリードリッヒ2世が聖地回復のために選んだ手段は、外交交渉であった。

 フリードリッヒ2世は、当時、聖地エルサレムを支配していたアイユーブ朝のスルタン、アル・カミールと粘り強く交渉を重ねた。そして、講和を成立させ、10年という期限付きではあるが、エルサレムをはじめとする諸都市の回復に成功したのだ。130年ぶりの聖地回復であった。成功の背景には、フリードリッヒ2世が流暢なアラビア語を話し、イスラムの文化にも深い敬意を払う教養人であったことがあるといわれている。

 カステル・デル・モンテを築いたのは、これまでの十字軍が武力でもって果たせなかった聖地回復を、無血で成し遂げた男なのだ。

 

カステル・デル・モンテの永遠の謎

 最後に、カステル・デル・モンテの謎に迫ってみよう。

 先に述べたように、フリードリッヒ2世がカステル・デル・モンテを建設した理由は定かでないが、いくつかの説がある。

 最も有力とされるのが、鷹狩りのために建てられたという説である。

 フリードリッヒ2世は、確かに鷹狩りを愛好していた。しかし、フリードリッヒ2世の著作で、死後に彼の息子が編纂した『鷹狩りの書』には、カステル・デル・モンテに関する記載はない。

 天体観測や占星術、錬金術などの実験のために建てたとみる説もある。8という数字へのこだわりや黄金比などから、あり得ない話ではないが、これも確証はない。

 フリードリッヒ2世は、キリストの聖杯を所有しており、それを納めるために建てたという説もある(金沢百枝 小沢実著『イタリア古寺巡礼』)。

 同著によれば、城の窓からは、フリードリッヒ2世が愛した2人の妻が眠るアンドリアの街が見えるという。

 フリードリッヒ2世は2人の妻を偲ぶために、カステル・デル・モンテを建てたのだろうか。答えは永遠の謎である。