文=中井 治郎

二条城東大手門の桜 写真=GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

コロナの春と京都の旬

「失われた春」も二度目ともなると、なるほどこれが「新しい日常」というやつなのかとようやく実感が追いついてくる。ウィズ・コロナもついに季節を一周した。緊急事態宣言の緊急性にもすっかり慣れてしまったわれわれがこれから迎えるのは、昨年に失われた季節との再会である。新しい日常なりの新しい季節の過ごし方。どうだろう、僕もあなたも一度目より少しは上手にやれるだろうか。

 それにしても、それほど暖かった覚えもないのだが今年の京都の桜は早かった。3月26日、二条城のソメイヨシノが観測の始まった1953年以降最も早い満開を記録したと報じられたのだが、じつは今年の桜の早咲きはそれにとどまるものではなかったようだ。

 京都の桜の正確な満開日は宮廷の日記などをもとに812年までさかのぼることができる。それによると今年の桜は平安時代からの1200年間でもっとも早くに満開を迎えたとのこと(注1)。異変といえば異変である。

注1: BBC NEWS “Japan's cherry blossom 'earliest peak since 812'” (最終閲覧日2021.03.21)

 若手社員がブルーシートで場所取りをして会社のみんなでどんちゃん騒ぎ・・・というような古式ゆかしいジャパニーズ花見スタイルも少しずつ見られなくなっていく昨今であったが、何よりもコロナで一変してしまった京都の春もこれが二度目である。

 局所的には賑わいが戻りつつあるものの、飲食店、宿泊施設、観光客向けの店などは相変わらず苦境の続くところが多い。花が咲き、人が集まる。それは変わらなくても、人の流れや花の楽しみ方がコロナ以前に戻ったわけではないことを思い知らされる。新しい日常、新しい季節の景色ということなのだろう。

 実はこれまで京都観光のピークといえば秋の紅葉のシーズンであった。ありていにいってしまうと「一年でもっとも宿の予約が取れないシーズン」というようなことであるが、それほど多くの人が秋になると「そうだ、京都いこう」と思い立っていたわけで、京都らしさの旬は秋にこそあると考えられていたわけである。

 たとえば嵐山あたりの禅寺の庭などだろうか。熱を失った季節の気配に身を浸しながら、寂々と自分と向き合う。いずれにせよ盛りを過ぎた葉が音を立てることもなく落ちる季節の旅である。実態はさておき、大人の旅、そして大人の街というイメージだったのだろう。

 しかし、そんな京都の旬に異変があったのは2010年代に入ってからのこと。この街を世界の人気観光都市ランキングの常連に押し上げることになる世界的な京都ブームが巻き起こったのである。そして、そこで世界を魅了した京都の旬は春だった。桜の季節である。ジャパネスクな古都をうずめる満開の桜の景色がとにかくフォトジェニックなのだという。つまりは「映える」のである。

 言語によるまだるっこしい能書きを必要としない魅力は易々と国境を越え、海を越え、歴史や信仰さえも飛び越える。ピンク色の桃源郷が手のひらに収まる電子画像に落とし込まれて、あっという間に世界中に拡散された。そして世界中の多くの人々が、自分のタイムラインに流れ着いたピンク色の電子画像を手掛かりに、この小さな街で春を迎えるために海を越えた。こうして京都観光の旬は、紅葉ではなく桜の季節へと移行したのである。

 

秘すれば花というけれど

 そのように近年の春の京都は世界中から桜を見るために集まった多国籍な人々でごった返していたわけだが、もちろんそれも2019年までのことである。2020年、パンデミックの春に現れたのは、見る人もないまま静寂のなかで満開を迎えた京都の桜景色であった。

哲学の道の桜 写真=PIXTA

 木の健康に負担を与える花見客が減ったことで桜が元気を取り戻したといわれる一方、「見る人のいない桜はこんなに寂しく見えるのか」という声もよく聞いた。われわれの暮らしを取り囲み、われわれの目に入るもので「たまたまそこにあるだけ」というものは思った以上に少ない。それぞれ何かしら意味や理由があってそこに存在しているのだ。

 もちろん花や木のような自然物であったとしても、「なぜ、ここにあるのか」を調べると、この土地で暮らしてきた人々の歴史や暮らし、野心や思惑、祈りのような願いによってそこに存在することになったものであることを知ることになる。

 国学者の本居宣長が「ただ花といひて桜のことにするには、古今集のころまでは聞こえぬことなり」と書いたように、ただ「花」というだけで桜を指すようになったのは平安中期以降のこと。そして桜を眺めること、それ自体を独立して楽しむ娯楽、「花見」が生まれた。

 花とそれを眺める人々は世界中どこにでも存在するが、群桜・飲食・群衆を兼ね備えたものを「花見」というなら、これは世界にも類を見ないという(注2)。そして、春のほんの短い時間を彩るために、この国の人々は桜をそれまで愛された梅の花に代わる「日本の花」として、いたるところに植え続けてきたのだ。あなたがいま見上げる桜も、たまたまそこにあるのではなく「見られるために」先人の誰かによってそこに植えられたものなのである。

注2:白幡洋三郎 2000『花見と桜 ~<日本的なるもの>再考』PHP新書

「年年歳歳花相似たり」というように、コロナであっても変わらず花は咲く。しかし、この物寂しさは何なのだろうか。おそらくそれは「失われた春」にわれわれが失ったものは桜ではなく花見だからなのであろう。「秘すれば花」ともいうが、そもそもそれを言った先人にしても、哀しみにくれる背中から怒りに踏みしめたつま先まで、その総身を人々の貪欲なまなざしに投げ出すことを生業とした人間である。見てくれる人のあればこそ咲く花であることは言わずもがなである。

 

「京の着倒れ」と花の自意識

 とにかく2020年、京都の寺院や観光業に関係する人々に話を聞いていてよく耳にした言葉は「見に来てくれる人がいない京都はこんなに寂しそうなのか」ということである。そういえば以前、祇園白川のお茶屋のおかみさんに聞いたことがある。

「大阪の食い倒れ」に対して「京の着倒れ」といったように、おしゃれに装うことへの京都人のこだわりは古くから語り草になってきたが、京都のご婦人方は少し近所に出かけるだけでもいい加減な恰好では街を歩かないのだという。

 なぜなら、せっかく遠くから京都を見るのを楽しみにやって来た人々をがっかりさせるわけにはいかない、というのがその理由だ。つまり自分もまた京都という風景の一部であることをつねにどこかで意識しているという。小面なのか般若なのか、はたまた愛嬌たっぷりの太郎冠者や次郎冠者なのか分からないが、つねに「見られること」を意識した舞台役者の気構えである。

 自意識過剰というなかれ。この街の人々はつねに人口の数十倍もの見物人のまなざしに晒される暮らしを数百年も続けてきたのだ。このような着倒れの気風をはじめ、伝統文化、観光、神社仏閣など、京都を象徴するものはどれも「見られること」によって成り立っている。

 もともと広い土地や豊かな資源がある街ではない。東国の武士たちに政を奪われ、さらには「天皇さん」さえも奪われたこの街の人々は、こうやって「見られること」を研ぎ澄ませることによって生き残ってきたのである。たとえば江戸時代後期の狂歌師、二鐘亭半山は京都滞在の感想を皮肉と憧れをまじえてこのように書き留めている(注3)。

「花の都は二百年前にて、いまは花の田舎たり。田舎にしては花の残れり」

 もはや実質の都ではない京都は花と見られてこその街。それを思うと身上をつぶすとまでいわれた京都人の着倒れも必要経費のようなものなのだろう。

注3:森田晃一 2012「東都江戸からのまなざし~江戸人の自尊と憧憬の観点から」井口貢編著『京都・観光文化への招待』ミネルヴァ書房

 そういえば「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは」と、桜の満開の様だけを目当てに遠くから京都にやって来る人々の花見に兼好法師が嫌味をこぼしていたのはもう700年近く前になる。そんな法師が久々に京都人しかいない春の桜景色を見たらなんというだろうか。

 見てくれる人もいないなかで「京都を演り続ける」のは、観客のいない舞台に立つ寂しさのようなものを感じさせる。しかし、一方でこれら京都に暮らした先人たちの遺した「秘すれば花」、「花は盛りに~」などの言葉はいずれも、花はそれを見られない時にこそ人の心を強く惹きつけるという教えである。手のひらに収まる桃源郷をこの街の春に見る世界の人々は、海を越えられない今、何を思っているだろうか。

鴨川沿いの桜 写真=PIXTA

 先日そんなことを考えながら、まだ5分咲きにも満たないくらいの日曜日の鴨川沿いを歩いていたら、大きなカメラを構えた青年とすれちがった。荷物も少ないようだし、近所の学生なのだろう。咲き始めた桜を撮りに来たようだが、あいにく枝はまだ蕾ばかりである。

 あてが外れたのか神妙な顔をして花を探しているが、どこから落ちてきたのか彼の頭のてっぺんには一枚の桜の花びらが乗っていた。ああ、春だな、と思う。そうしているうちに2cmほどのピンク色のかけらを載せたまま、彼は花を求めてどこかへ行ってしまった。一心に春を探す日曜日が、満開を待たずに散った花びらとともにした道行きであったことを、若い彼はまだ気づいていない。