文=鷹橋 忍

マリエン橋から見たノイシュヴァンシュタイン城。写真:PantherMedia/イメージマート

ドイツ有数の観光資源となった城

 海外旅行を楽しめるようになるには、もう少し時間がかかりそうな現在、気分転換も兼ねて、今回はとびきり美しいお城と、その築城者にまつわるミステリーをご紹介しよう。舞台となるのは、「世界一美しい」とも称される、ドイツ・ロマンティック街道のハイライト「ノイシュヴァンシュタイン城」だ。

 このあまりにも有名な美しき城と、その築城者であるバイエルン国王ルードヴィヒ2世に、多くの説明は不要だろうが、概要だけを簡単にご紹介する。

 ノイシュヴァンシュタイン城は、「狂王」の異名をもつルードヴィヒ2世が、心酔するワーグナーの世界を具現化した中世風の城だ。「夢の城」と呼ばれるように、おとぎ話の世界から抜け出したような幻想的な白亜の城で、ディズニーランドのシンデレラ城、あるいは、眠れる森の美女の城のモデルとなったといわれる。

 ルードヴィヒ2世は城の建築に取り憑かれ、膨大な借金を作った。彼を国王の座から引きずり下ろそうとする動きもあり、精神科医より「統治不能」と診断され、軟禁されてしまう。その後すぐに、謎の死を遂げた。享年40であった。

 ルードヴィヒ2世は軟禁される前に、「ノイシュヴァンシュタイン城には、誰にも踏み込ませないで欲しい」と懇願していた。ところが、ルードヴィヒ2世の遺志は聞き遂げられなかった。ノイシュヴァンシュタイン城は、彼の死から7週間目に入場料を取って公開され、現代でも年間130万人もの入城者を誇る、ドイツ有数の観光資源となっている。

 また、ルードヴィヒ2世は、「シシィ」の愛称で親しまれた美貌のオーストリア皇妃・エリザベートとは親戚であり、二人は親しい間柄であった。彼の一番の理解者は、エリザベートだったといわれる。

 上記の内容は、知ってる方も多いだろうが、ここからは、あまり知られていないことや、誤解されがちなことを中心にみていきたい。

 

水道、電気、電話もかけられたハイテクな城

ノイシュヴァンシュタイン城。写真:PantherMedia/イメージマート

 まず、ノイシュヴァンシュタイン城という城名は、日本語で「新白鳥城」と訳され、白鳥のごとき白亜の城にとてもマッチしているが、これはルードヴィヒ2世の死後に付けられたものである。ルードヴィヒ2世が存命の頃は「ノイエブルグ・バイ・ホーヘンシュヴァンガウ城」と呼ばれていた。

 また、おとぎ話の城のような外観から、中世の城だと思う方も少なくない。しかし、城の着工は日本では明治2年にあたる1869年、産業革命はすでに始まっていた時代である。

 そのため、ノイシュヴァンシュタイン城には、セントラルヒーティングによる暖房、温水が使え、大小の自動回転串グリルが備わった超近代的なキッチン、工業用鉄骨窓、各階に水道、電話も使え、各階のトイレも自動水洗という、当時としては最新の設備を投入したハイテクな城であった。

 特筆すべきは、城の建設費の出所だろう。「城の建築で、国を傾けた」といわれるルードヴィヒ2世だが、ノイシュヴァンシュタイン城を初め、リンダーホーフ城やヘレンキームゼー城の建設費は、彼の御手元金や、王族財産から賄っていたというのだ。彼は、年に450万グルデン(約54億円)にもおよぶ巨額な予算を、自由に使えた。もっとも、それでも城の建設費は足りず、ルードヴィヒ2世が借金を重ね、王室財政は破綻し、金策に苦労していたことは事実である。

 

ルードヴィヒ2世は「狂王」ではなかった?

ルードヴィヒ2世

 また、ルードヴィヒ2世の代名詞ともいうべき「狂王」についても、疑問視する声も上がっている。

 彼の「狂気」を証明した鑑定書に署名したグッデン、ハーゲン、グラースハイ、フーピリヒの4人の医師は、グッデンを除いてルードヴィヒ2世に会ったこともなかった。唯一、面識のあったグッデンにしても、それは12年前のことであり、4人の誰ひとりとして、ルードヴィヒ2世を診察していなかったのだ。

 鑑定書はグッデンによって一夜で書き上げられ、その資料となったのはルードヴィヒ2世の不興を被った者や、新政権側の人間の証言だった。当然のことながら、虚偽や誇張の証言もあろう。証言のなかには「食事の際に、食べ物で服を汚す」といったものまで存在した。

 反対に、ルードヴィヒ2世に近しい人々で、彼に恨みがない者は、彼の精神の病を否定していたという。(関楠生著『狂王伝説 ルードヴィヒ二世』)

 ルードヴィヒ2世は「狂王」ではなかったのだろうか。

 

ルードヴィヒ2世の永遠の謎

シュタルンベルク湖。写真=PantherMedia/イメージマート

 ルードヴィヒ2世が、謎の死を遂げたことはよく知られているが、その死の何が「謎」だったのだろうか。

 まず、その死を時系列で追ってみよう。

 1886年6月8日、ルードヴィヒ2世はグッデンらから狂気が証明されると、6月12日にノイシュヴァンシュタイン城で捕らえられた。その後、シュタルンベルク湖畔のベルク城に収容されてしまう。

 翌日(6月13日)の夕刻、ルートヴィヒ2世はグッデンと一緒に散歩に出た。グッデンは「8時には帰る」と言い残していたが、8時を過ぎても2人が戻ってくることはなかった。

 臣下たちが警官とともに探したところ、夜の10時頃、シュタルンベルク湖の浅瀬で、ルードヴィヒ2世のマントや2人の傘などが見つかり、ほどなく2人の遺体も発見された。

 ルードヴィヒ2世の遺体は無傷であったが、グッデンの顔には引っかき傷や、殴られたような青あざが残っていた。ゆえに2人の死は、「ノイシュヴァンシュタイン城と王座を追われ、失意に陥ったルートヴィヒ2世は、彼の自殺を阻止しようとするグッデンをもみ合いのすえに殺害し、その後に自殺を図った」という見方が浸透している。

 しかし、ルートヴィヒ2世は水泳の達人であり、そんな彼が浅瀬で自殺を図るのか。また、人が死ぬほどの格闘が行われたなら、ルートヴィヒ2世だけが無傷というのは、些か不自然ではないかと、指摘する声もある。

 当時の時計は防水機能がないため、水に浸かると長くは動かないのだが、ルートヴィヒ2世の時計は6時45分で、グッデンの時計は8時で止まっていた。グッデンは、時計のねじを巻き忘れる癖があったとされているが、時計の停止時間だけで判断するなら、ルートヴィヒ2世のほうが、先に亡くなったようにも思える。

 もう一つ不可解なのは、なぜか、グッデンのポケットに、約200マルクが入っていたことである。200マルクは、当時の平均労働者の4年分の収入に相当するという。なぜ、グッデンがそんな大金を、散歩に持ち歩いていたのかは、わかっていない。(シュミット村木眞寿美著『ルードヴィヒ二世の生涯』)

 この自殺説の他にも、湖を泳いで逃げようとし、その際に心臓発作を起こしたという病死説や、何者かに銃撃されたという他殺説など、ルートヴィヒ2世の死因に関しては様々な説が囁かれ、真相は謎のままである。

 なんとか真実を知りたいものだが、ルートヴィヒ2世は、女優マリー・ダーン・ハウスマン(1829~1909)への手紙のなかで、「私は、自分自身や他の人にとって、永遠の謎であり続けたい」と綴っている。それが彼の願いならば、彼は、その死の謎が解き明かされることなど、望んでいないのかもしれない。

 ルードヴィヒ2世の遺体発見現場であるシュタルンベルク湖の浅瀬には、十字架が彼の「永遠の謎」を封じるように、立てられている。