文=藤田令伊

近未来のモニュメントのような建物

「すごいアート」は、いつも美術館やギャラリーにあるとは限らない。ときに思いがけぬところで出合うこともある。今回ピックアップした東京カテドラル聖マリア大聖堂も、そうしたひとつといえるかもしれない。

 あなたはこれまで教会を鑑賞の対象として意識したことがあるだろうか。教会といえば、信仰の場であり祈りの場である。だが、教会にはそれだけに限らない価値あるいは魅力がある。論より証拠、まずはこの姿を御覧あれ。

写真提供=東京カテドラル聖マリア大聖堂

 いかがだろう。きっと、多くの人の度肝を抜いたのではあるまいか。およそ「教会」という言葉から連想するイメージとは異なり、まるで近未来のモニュメントか何かのような佇まいである。HPシェルという巨大なコンクリート製の曲面板を8枚立てかけるようにしてつなぎ合わせた構造で、上から見たら十字架のかたちになっている。

 シェルとシェルはきっちり接合されてはおらず隙間が設けられている。その隙間にガラスがはめ込まれ、採光が図られている。ガラスの採光は側面からトップライトへとつながっており、あたかも光の帯が教会を包み結んでいるかのような具合である。

写真提供=東京カテドラル聖マリア大聖堂

 内部の壁は打ちっぱなしのコンクリートである。素っ気ないといえば素っ気ないが、それが独特の空気を生み出している。飾り気のないコンクリート壁はストイックな味わいを醸し、信仰の純粋で峻厳な精神を直感的に伝えてくる。無機質なコンクリートはニュートラルなものであるがゆえに、一種、普遍性に通じるイメージが湧いてくるのだ。

 内部に柱はなく、いわば巨大ながらんどうである。高い天井は空間の「大きさ」を強く意識させる。その大きさからくる荘厳さが、場にいる者を圧倒する。キリスト教徒ならずとも畏敬の念を覚え、もし「神」という概念に触れるとしたら、こういう体験かもしれないと思わせるものがある。

 

設計は丹下健三

 この稀有な教会を設計したのは丹下健三。ご承知の通り、東京都庁や代々木体育館といった、日本の建築史上メルクマールとなる建物を数多く設計した建築家である。

 東京カテドラル聖マリア大聖堂がつくられたのは1964年。当時はモダニズム思潮が世界を席巻していた時代で、当教会も日本の代表的なモダニズム建築のひとつと評価される。打ちっぱなしのコンクリートによる造りはブルータリズムと呼ばれたもので、素材を生のまま使用する方法である。建てられてから半世紀以上が経つが、いまなお異彩を放つ、わが国建築界の特異点である。

 

あの有名な像のレプリカも

 ところで、ここには建築のほかにも見るべきものがある。大聖堂の一隅、一体の彫刻が置かれている。真っ白な大理石でできた作品で、教会という場所にふさわしい神々しさを湛えている。

写真提供=東京カテドラル聖マリア大聖堂

 それは、愛らしい顔をした少女といってもおかしくない女性が、一人の男を抱きかかえている像である。男はぐったりとしており、どうも、彼の生命は尽きてしまったようである。よく見れば、女性は顔つきとは似つかわしくない逞しい身体をしており、顔つきと体つきのあいだに整合がとれない違和感がある。

 この作品、アートが好きな人ならば、思い当たるものがあるはずである。もったいぶらずに正体を明かすと、ミケランジェロの《ピエタ》である。だが、ルネサンス芸術の至宝というべき作品が、どうして東京にあるのか。もっと詳しい人ならば、「たしかミケランジェロの《ピエタ》はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂にあるはずでは?」と疑問を覚えることだろう。

 その通り。じつは、この《ピエタ》はレプリカである。しかし、レプリカといっても、その出来栄えは本物と寸分違わぬといっても過言ではない見事なもので、実際、バチカンから公式のレプリカとして認められている。ところが、ここにこれがあることは案外知られていない。

 サン・ピエトロ大聖堂の《ピエタ》は厳重に管理されており、よく見たいと思っても間近まで近づくことができない。加えて、現在のコロナ禍にあっては、再びバチカンまで行くことができるようになるのはいつのことになるか見当もつかない。とすれば、東京カテドラルの《ピエタ》は、私たちにとって大変貴重な存在というべきであろう。

「相違のない相違は相違ではない」という言葉がある。もし、本物と何ら異なるところがないレプリカがあったとしたら、私たちは、本物とレプリカのあいだで、鑑賞体験に差異を見出すことができなくなる。それでも本物とレプリカに違いはあるというべきなのか。見ることの価値とは何に起因するのか。東京カテドラルの《ピエタ》は、そんな哲学的なことをも静かに訪れた者へ問いかけている。