文=藤田令伊

舟越保武《原の城》 1971年(昭和46) ブロンズ 岩手県立美術館蔵

目玉のない彫刻

《原の城》というタイトルの彫刻作品があることをご存じだろうか。作者は舟越保武。これがどういういわれの作品かは後述するとして、まずは作品をご覧いただきたい。

 一人の武者が彫られた像だが、その佇まいは異様である。甲冑を身にまとい、唐突に立っている姿となっている。横から見ると、猫背で、首を前に突き出すようにしていることがわかる。肩には力が入っているようだが、そこから先はそれほどでもなく、腕を曲げることなく真っすぐ体の横に重力に逆らわずに下ろしている。手は中途半端に開いたままで、武器は持っていない。

《原の城》右側
《原の城》左側

 特異なのは顔。眼の部分が空洞になっていて、目玉がないのだ。彫刻において眼はアピールポイントのひとつである。古くは運慶らが水晶を用いた「玉眼」というリアルな表現法で見る者を驚かせたように、彫刻家にとっては腕の見せ所のはずである。ところが本作では、その肝心な部分がすっぽりと抜け落ち、文字通りの「void」になってしまっている。

《原の城》部分

 だが、その「void」が強いインパクトをもたらしている。あるべきものがない眼窩には闇が満ち、底なしの奈落の如き様相を呈している。闇の眼窩は、目玉がないにもかかわらず、情念というべきものをひしひしと伝えてくる。武者のやり場のない悲嘆が、やはり空洞となっている口の表情と相まって、真に迫って見る者に押し寄せてくるのだ。

 像の表面は何十年、何百年という時間が経たような細かい傷(みたいな跡)が全体を覆っており、悠久あるいは永遠といった概念を想起させる。

《原の城》背面

 いったい、この武者はどういう事情でこうしているのだろうか。何らかの事態を目の当たりにして茫然と立ち尽くしているようでもあり、取り返しのつかない何かを突きつけられたかのようでもある。気持ちはそちらに向かっているけれども、身体が向かうことは許されないようにも見える。深い深い悲しみが武者を縛りつけているのだろうか。

 

島原の乱の舞台となった城

 この像には「寛永十五年如月二十八日原の城本丸にて歿」と刻されている。作品のタイトルとなっている「原の城」とは、かつて長崎県南島原市にあった城のことである。寛永14~15年(1637〜1638)にかけて、そこは地獄絵図と化した。苛烈な藩政と過酷なキリシタン弾圧に耐えかねた農民たちが一揆を起こし、3カ月にわたって城に立て籠もったものの、やがて幕府軍に制圧され、老人や子どもを含む3万7千人が殺された。世にいう島原の乱である。乱が鎮圧されたのが「寛永十五年如月二十八日」だった。

 作者の舟越保武は1962年に城跡を訪れ、人々が壮絶な最期を迎えた地が今日長閑で平和な風情にあるなか、討ち死にした武者がよろよろと立ち上がる、現実とも幻ともつかない強いビジョンを得たのだという。以来、作者はそのイメージと格闘を続け、訪問から約10年の歳月を経て本作へと昇華、結実したのである。

 舟越の表現は一種超越的である。四の五のいうまでもなく、見る者の心に直接突き刺さってくるものがあり衝撃的ですらある。しかもその突き刺さってくるものを言葉で説明するのは難しい。既存の言葉のなかにピッタリ当てはまるものを見出すのは困難で、先ほど「悲嘆」とか「深い悲しみ」とあっさり書いてしまったが、ほんとうはそれだけではなく、もっと異なる重層的なニュアンスを含んでいる(あなたも一度説明を試みてほしい)。

 ステレオタイプは排されており、むき出しの本質がぶつけられているとでもいうような感覚を覚える。それは、単なる技巧では表現できないもので、既成概念を超えて作者が感取したものを誠実に、妥協なく追い求め続けた果てに、ようやく具現化することのできたものなのであろう。

 本連載のシリーズタイトルにちなんでいえば、まさに「すごい作品」である。おそらく、時間をかけて武者と向き合えば向き合うほど、感じ取られるもの、伝わってくるものは深く大きくなるはずである。このような作品がこの国から生み出されたことに誇りさえ覚える。

 

1体目はバチカン美術館所蔵

 作品の舞台背景となっている島原の原城跡は2018年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産に登録された。そして、この《原の城》のブロンズ化された1体目はバチカン美術館の所蔵にもなっている。舞台と作品の双方が世界から価値を認められたわけである。

 日本では複数の鋳造が、ここで紹介した岩手県立美術館のほか、長崎県美術館、宮城県美術館、茨城県立近代美術館、笠間日動美術館、東京国立近代美術館、宮崎県総合博物館などに所蔵・展示されている。近くの所蔵館でぜひ向き合ってもらいたい作品である。