文=鷹橋 忍

シェール川に架かる橋に築かれた「橋上宮殿」ともいわれるギャラリー。
写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

愛憎うず巻く、麗しの古城

 フランスのロワール地方にはいくつもの美しい古城があり、その中でもシュノンソー城は、1、2の人気を争う屈指の名城と謳われる。

 ロワール河の支流シェール川にまたがるように佇む優美な姿は、「シェール川の宝石」と称えられ、2000年にロアール渓谷流域の古城の一つとして、世界遺産(文化遺産)に登録されている。

 シュノンソー城の歴史は、16世紀に宮廷の財務長官トマ・ボイエと、その夫人カトリーヌ・プリソネが、マルク家の城塞と水車を取り壊して造ったことに始まる。

 このカトリーヌ夫人が不在の夫に代わって城建築の指揮を執ったのを皮切りに19世紀までの間、6人の女性が城主の座に君臨したことから、シュノンソー城は「6人の奥方の城」の別名をもつ。

 6人の貴婦人たちはこの城を舞台に、様々なドラマを繰り広げた。なかでも、もっとも有名なのは、時のフランス王アンリ2世(1519〜1559)の寵姫であった2人目の城主ディアーヌ・ド・ポワティエ(1499~1566)と、王の正妻であった3人目の城主カトリーヌ・ド・メディシス(1519~1589)が織りなした愛憎劇だろう。

 愛妾のディアーヌは、「60歳を過ぎても30代にしか見えなかった」という逸話をもつ、今で言う「美魔女」であった。アンリ2世より20歳も年上でありながら、王の寵愛を一身に受けた。やがて、正妻カトリーヌが、喉から手が出るほど欲しがっていたシュノンソー城を贈られ、2人目の城主となった。

 一方、カトリーヌ・ド・メディシスは、その名の通り世界的な大富豪でフィレンツェの名門メディチ家の娘である。カトリーヌは、アンリ2世を一目見た瞬間から恋に落ち、それからずっと熱愛し続けたという。

 だが、カトリーヌは子宝こそ恵まれたが、悲しいことに夫の愛を得ることはできなかった。アンリ2世は、ディアーヌを生涯にわたって愛し抜いたからだ。

 正妻でありながら影の薄い存在であったカトリーヌだが、1559年に夫が亡くなると立場が逆転する。カトリーヌは、ディアーヌにシュノンソー城とショーモン城を交換させ自らが3人目の城主の座に収まった。

 美しい城に潜む、情念のドラマである。

 

橋上宮殿と2つの庭

「橋上宮殿」ギャラリーの内観。

 シュノンソー城は主に、マルクの塔、シェール川の流れの中に建てられた初期ルネサンス様式の城館、シェール川に架かる橋に築かれたギャラリーと、いくつかの庭園で構成されている。

 このうち、城を象徴するのが、「橋上宮殿」ともいわれるギャラリーだ。白亜の城館が川面に映し出される気品あふれる姿は、水辺で羽を休める白鳥にもたとえられる。

 この美しいギャラリーは、先述の因縁の2人の城主によって生み出された。2人目の城主ディアーヌ・ド・ポワチエはアーチ型の石橋を造らせ、3人目の城主カトリーヌ・ド・メディシスが石橋の上にルネッサンス様式の回廊を建設し、現在の姿となったのだ。

 このギャラリーの大きな窓からは、シェール川の風雅な流れを眺めることができる。カトリーヌは、人魚の装いをさせた女たちをこの川に泳がせ、ギャラリーをわたる客人の目を楽しませたという。床には白と黒のタイルが敷かれ、華麗な舞踏会が催された。

ディアーヌの庭から見たシュノンソー城館とマルクの塔。

「マルクの塔」も、観光の目玉の一つだ。これは、シュノンソー城の建設前からあったマルク家の塔を、1人目の女性城主とされるカトリーヌ・プリソネとその夫が、ルネッサンス様式に造り替えたものだ。

 この塔側にカトリーヌ・ド・メディシス庭園、その反対側にディアーヌ・ド・ポワチエ庭園と、愛憎劇を演じた2人の城主の名を冠した2つのフランス式庭園が、競うように対峙している。円形の池と5つの芝生の庭からなるカトリーヌ庭園も、造園当時の噴水が再現されたディアーヌ庭園も、どちらも三角関係の愛憎劇など忘れてしまうほどに美しい。

 

いつの時代も主役は女性

 カトリーヌ・ド・メディシス以降は、どんな女性が城主となったのだろうか。

 4人目の城主は、フランス王アンリ3世の妃ルイーズ・ド・ロレーヌ(1553~1601年)だ。アンリ3世は、アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの子である。

 ロレーヌは、1589年に夫が暗殺されると、シュノンソー城に引きこもり、王家の喪服である白い服をまとい続けた。そんなロレーヌを、人々は「白い王妃」と呼んだ。そのため、白い喪服の幽霊が出るという噂があるが、もしかしたらロレーヌが死後も夫を忘れられず、城内をさまよっているのかもしれない。

 ロレーヌ以後は、王族以外の女性が城主の座に就くことになる。5人目の城主ルイーズ・デュパン(1706~1799年)は、フランスの作家ジョルジュ・サンドの祖母だ。

 デュパン夫人はフランス革命時に、城の礼拝堂を薪の貯蔵庫として使って宗教性を隠すという機知を働かせ、城を破壊から守った。また、村人たちに人気があり、革命期に城が荒らされなかったのは、夫人の人徳によるものだといわれている。

 シュノンソー城は現在、「美術館」といっても過言でないほどのコレクション品を所蔵しているが、デュパン夫人がいなければ、それらも失われていたかもしれない。

 6人目の城主マルグリット・ペルーズ(1836~1902年)は、産業資産家の出身である。ペルーズ夫人は、多額な費用をつぎ込み、2人目の城主ディアーヌ・ド・ポワチエの時代の城の姿を復元させようと尽力した。

 我々が今、美しいシュノンソー城を目にすることができるのは、こうした歴代の女性城主たちのおかげだと言える。シュノンソー城は、女性が造り、守り、今に残した、常に女性が主役を演じた城なのだ。