文=鈴木文彦

ウージェーヌ・ドラクロワ『サルダナパールの死』

製作年 1827年
種類 画布、油彩
寸法 392 cm × 496 cm
所蔵 ルーブル美術館、パリ
©︎getty images

ロマン派絵画の代表的な作品。英国の作家・詩人、バイロンの作品『サルダナパロス』に着想を得て、古代ギリシアの王、サルダナパロスの最期の場面を描いている。ドラクロワの描くサルダナパロスは、反乱にあって自らの死が確定すると、城に火を放ち、数々の宝飾品を破壊し、馬と女は殺し、それをベッドに横たわって無表情にながめている、狂気的な王。サルダナパロスがどういう人物だったのか、その最期がいかなるものだったかは詳しくわかっておらず、バイロンのサルダナパロスの物語にはこのようなシーンがないため、この絵画を見る上では、背景の知識はあまり役に立たない。混沌とした色彩、バランスの崩れた構図、遠近法の無視、不道徳な光景、異国趣味、など、古典派の絵画とはまるでちがった絵画として議論をよんだ問題作

そんな昔のことはわからない

 絵画、とくにある程度昔の時代のヨーロッパの絵画を見るとき、それを敷居が高いと感じるのであれば、その理由のひとつに、そもそも何が描かれているのかがわからない、という感覚があるのではないかな、とおもいます。

 たとえば、お祈りしているヨーロッパの女性が描かれている絵があったとしましょう。女性は青い服を着ていて、頭上には天使の輪っかのようなものがのっている。背景には茶色っぽい森と岩山のようなものが描かれている。たぶん、これはキリスト教の絵画で、この女性はマリア様なんだろうなぁ。きれいだなぁ……。

 と、こんなところで終わってしまって面白がりかたがそれ以上わからない。そんなことはないでしょうか。

 聖書や、神話、演劇や小説の場面を描いた絵画は、それが描かれた当時には、それを見る可能性がある人々のあいだで、そこに何が描かれているかは、ある程度共有されていた情報だったのだろうとおもいます。日本であれば、富士山とか東京タワーが描かれていれば、それは、どうしたって、富士山だな、とか東京タワーだな、とかぼくたちにはわかるものです。
 ちょんまげをしている人が描かれていたら、江戸時代かな、とおもうでしょう。

 しかし、描かれた時点から、ときには数世紀の隔たりがあり、地理的にも地球のあっちとこっちだった場合、ぼくたちは、情報を共有していません。

 物語をベースとしない絵画には、たとえば印象派がありますが、印象派にしても、描いてるのは印象派と同時代の風景です。いくら背景となる物語がそもそもなく、予備知識をあまり必要としない絵画だといっても、100年以上前の風景と現代の風景とは、かなりの隔たりがあります。

 ゆえに、こういう絵画を急に見せられても、なにが描かれているのかわからない、というのはある意味、当然な反応なのです。

 

画家の動きを見る

 そういうわからない絵画を見たときに、それでも面白がる方法として、今回、筆致に注目してみる、という見方を提案してみたくおもいます。

 この筆致というのは、印象派が登場する頃に絵画業界で物議をかもしたのですが、画家の筆使いの痕跡のことをいいます。

 絵画は人間が手で描いています。絵画には人物や神様、風景などと同時に、画家が絵を描いた時間が記録されています。それがよく分かるのが、絵画に残された筆致です。筆致を見れば、絵画に何が描かれているのかがわからなくても、いったい、画家はどれくらい時間をかけてこれを描いたのか、どういう思いを込めて筆を動かしているのか、を考えることができます。

 その好例だとおもうのが、『サルダナパールの死』です。描いたのはウージェーヌ・ドラクロワ。高さ4メートル、横幅5メートルもあるかなり大きな絵画で、普通は、ルーブル美術館の2階に展示されています。ルーブル美術館は絵画の配置や展示されている絵画がたまに変わるので、確実なことはいえませんが、あんまり人が行かない3階に、この絵画の習作があります。こちらは、もっと荒い、そしてとても小さな絵画です。

 筆者は、この習作もぜひ見ていただきたいとおもっています。なぜなら、習作のほうは、表面がボコボコしているのです。これがドラクロワがこの絵画に残した筆致です。筆に絵の具を塗って、画布の上にのせたドラクロワの動きが残っているのです。200年近く前の人間の動作の痕跡が残っているだけで、ちょっと感動的ではないでしょうか。

 前回話題にしたアングルなどは、絵画の表面を平滑に仕上げます。最終的に画面から筆致を消す、というのはこの時代のマナーみたいなもので、ドラクロワも大きい、完成版のサルダナパールの死の方では表面を平滑に仕上げています。また、ベッドの下に散乱している宝飾品なども、精密に描かれ、細部まできちんと仕上げられていることがわかります。

習作では省略されている宝飾品などもしっかりと描きこまれている完成版。とはいえ、女性たちの肌や布には筆致の痕跡を見ることができる。ドラクロワの後の傑作『アルジェの女たち』にみられる東方趣味もあらわれている

 今回は、完成版のサルダナパロスの死の画像を掲載していますが、習作の方は「la mort de sardanapale esquisse」というワードで検索することで、確認できます。実際は、実物を見て、立体感なども感じていただきたいのですが、これを知ることで、完成版のサダナパールの死もぐっとわかりやすくなるのではないか、とおもいます。

 完成版の『サルダナパールの死』で、あきらかな筆致を見つけることは困難かもしれませんが、それでも、細部が明確にはわからない程度に距離をとってみると、色彩が荒れ狂って、炎の渦のような印象を筆者は受けます。絵画全体で、狂王の最期を表現しているかのように。習作では、精密な細部は描かれておらず、人間の表情も略式なので、より、それが明らかです。そして、これが冷静な絵画ではなく、激しく、ドラマチックで、躍動感やスピード感を画家が表現しようとしていたことが感じとれるとおもいます。

バイロンの『サルダナパロス』で、サルダナパロスが毅然とした態度で自ら登っていった火葬台が、背景に描かれている。これは時間や場所の異なる映像をひとつの画面に入れる手法。うずまく黒煙にも筆使いのあとをみることができる。この黒と強いコントラストをなすのが画面中央の鮮やかな赤と白。絵画全体が炎のようにも見える

 この絵画は1827年に描かれたものですが1800年代後半になると、印象派が筆致と混沌とした色彩ばかりで描かれている、一世代前であれば未完成といわれるような絵画を多数、描くことになります。そして、写真がより、現代の写真に近づくにつれ、絵画はむしろ、何を描くか、よりも、人間がわざわざ描く、という画家の行為の記録としての側面が強くなっていきます。

 無意識に描く、意図しないものを芸術作品のなかに入れる、という芸術作品のつくりかたをシュールレアリストなどは実験しますが、絵画というのは、基本的に、写真や動画とちがって、作者が意図していないのに入ってしまった映像、というのはありません。画面に描かれているものは、画家がそれをそこに描こうとして、実際、描いたから、そこに描かれているのです。それは意識と時間の記録です。

 画面に残った筆致、画家の動きの痕跡を見ることは、絵画にそれを描いた人間を見る手がかりになります。そこから、これまでわからない、とおもっていた絵画も、面白がるきっかけを得られることがあるかもしれません。