文=鷹橋 忍

世界各国にある城や宮殿は、当時の背景や権力者の歴史を伝えるだけでなく、美しく、荘厳な眺望は時間を忘れさせてくれる。実際にこの目で見られる日が来ることを楽しみに、貴重な建築物の魅力を、関連する人物のユニークなエピソードともにお届けしていきます。

ドイツ・ハイデルベルク城 写真:PantherMedia/イメージマート

ゲーテも愛した廃墟の荒城

 ハイデルベルク城は、その名の通り、ドイツ南西部の都市ハイデルベルクにある古城だ。

 ドイツ最古の大学として知られるハイデルベルク大学とともに、世界各地から訪れる人気のスポットだ。マンハイム(ドイツ)から、チェコ共和国の首都プラハへと続くドイツの観光街道「古城街道」の筆頭に挙げられる城でもある。

 この城の最大の特徴は、内部の多くは廃墟と化しているのに、ほとんど再建されぬまま、公開され続けていることだろう。

「廃墟の美」とでもいうのか、崩れ落ちるままの姿は、想像力をかき立て、歴史の重さを感じさせる。ゲーテ、カント、ショパンなどの名高い芸術家や哲学者たちがこの城を愛し、その美しさをたたえ、芸術的、あるいは哲学的なインスピレーションを得たという。

 眺望も、この城の大きな魅力のひとつだ。城のテラスからは、旧市街とネッカー川などが一望でき、多くの観光客の目を楽しませている。

  中でも、一番のビューポイントは、ネッカー川の対岸の山の中腹にある「哲学者の道」からの眺めだ。山の中腹にそびえる廃墟の城と、赤い屋根が続く街並み、川に架かるアーチ型のカール・テオドール橋は、まさに絶景。ゲーテやショパンも愛したと伝わるこの遠景は、今も人々を惹きつけてやまない。

城、旧市街、橋が一体となってハイデルベルクの景色を形成する。写真:PantherMedia/イメージマート

 

破壊と焼失の果てに

 ハイデルベルク城は、13世紀の初めに、プファルツ選帝侯の居城として着工されたと伝わる。プファルツ選帝侯は神聖ローマ帝国の諸侯で、選帝侯とは、神聖ローマ皇帝の選挙権を有するドイツの有力諸侯を指す。

 プファルツ選帝侯は約500年の長きにわたって、ハイデルベルク城を居城とした。歴代の選帝侯は増改築を繰り返し、城は、巨大な宮殿となった。

 ところが、17世紀に入ると、ハイデルベルク城は、二つの戦禍に見舞われる。ひとつはフリードリヒ5世(1596~1632)の時代に勃発した30年戦争(1618~1648年)、もうひとつは、プファルツ継承戦争(1688~1697年)である。

 30年戦争とは、ドイツを中心に行われた「最後で最大」といわれる宗教戦争だ。当初は神聖ローマ帝国内の新旧両派諸侯の戦いであったが、国際戦争に拡大した。フリードリヒ5世はプロテスタント側で戦った。また、プファルツ継承戦争は、プファルツ選帝侯領の継承権を主張するフランス王ルイ14世が起こした戦争である。

 このふたつの戦禍に巻き込まれたハイデルベルク城は、徹底的に破壊されてしまう。プファルツ継承戦争が終結した後も、資金難やマンハイムへ宮廷を移したことなどの理由で、再建がかなわないまま、時は流れた。

 カール・デオドール(1724~1799)の代になり、ハイデルベルク城に居城を戻す計画が持ち上がったが、またもや不幸に襲われる。なんと二度も落雷に遭い、城は炎上してしまったのだ。カール・デオドールは、これを「神の意志」と受け止め、再建を断念したという。

 だが、19世紀頃から、フランスのグライムベルク伯を初め、ハイデルベルク城に魅せられた人々の努力により、街が建物の保存を定めた。1903年にはフリードリヒ館、1934年には婦人館王の間が復元され、現在に至る。

 二度の大戦をくぐり抜け、現在も中世の雰囲気をまとったまま、その廃墟の美で人々を魅了し続けるハイデルベルク城。これも、神の意志なのだろうか。

 

各時代の様式が混在する、建築の玉手箱

 ハイデルベルク城は、城壁や塔、火薬塔や庭園等の他に、フリードリヒ館、ルートヴィヒ館、ルブレヒト館など、代々の選帝侯が建てた城館が、中庭を囲むように立ち並ぶ「城郭宮殿」である。

 建築面での特徴は、何度も増改築が行われてきため、様々な建築様式が見られることだろう。

ループレヒト館

 たとえば、現存する城内最古の城館であるループレヒト館の内部には、ルネサンス様式の暖炉が設けられ、14世紀に建築された八角塔はゴシック様式だ。またオットー・ハインリヒ館は、ドイツ初の宮殿建築といわれる。

 ハイデルベルク城の見どころは数多く存在するが、観光の目玉は、巨大なワイン樽とペルケオだろう。

 フリードリヒ館の前から地下へ入ると、世界最大級の巨大なワイン樽が聳えている。1軒の家ぐらいの大きさがあり、その容量は22万1726リットルといわれる。プファルツ選帝侯領はワインの名産地であり、領民から税として納められた多量のワインを、貯蔵しておいたのだ。

 このワイン樽を見張っているのが、ペルケオ像である。大酒飲みの道化師で、樽の番人であったペルケオは、等身大の像となって、今もワイン樽を守り続けている。

 

冬の王と王妃の物語

 最後に、ロマンティックなエピソードをご紹介しよう。

 ハイデルベルク城には「エリザベート門」という門がある。

 これは、先述したプファルツ選帝侯フリードリヒ5世が、妻である、イギリス国王ジェームズ1世の長女・エリザベス(ドイツ語でエリザベート)・スチュアート(1596~1662)の19歳の誕生日プレゼントとして、造らせたものだ。しかも、妻を驚かせるために、一夜で造らせたと伝わる。今でいうサプライズだ。城内には「イギリス館」という城館もあり、これもエリザベスのために建てられたものだという。

イギリス館

 エリザベスは大変に魅力的な女性で、「慈愛の王妃」と呼ばれて慕われていた。フリードリヒ5世も、エリザベスをとても大事に思っていたに違いない。

 だが、二人がハイデルベルク城で過ごす日々は、そう長くは続かなかった。

 先に述べたように、フリードリヒ5世は30年戦争を、プロテスタント諸侯として戦った。1619年に、プロテスタント貴族に推されて、一時はボヘミア王となったものの、翌年にはカトリック側の軍との戦いに敗れてしまう。ボヘミア王でいられたのは1年にも満たない短い期間であったため、フリードリヒ5世は「冬王」、エリザベスは「冬の王妃」という、不名誉なあだ名で呼ばれた。

 その後、カトリック連合の追撃を受けたフリードリヒ5世は、選帝侯を廃位され、オランダへ亡命。エリザベスは、夫が流浪の身となっても見捨てることなく、ともにオランダで暮らした。

 フリードリヒ5世は1632年に36歳の若さで亡くなってしまうが、エリザベスは夫との間に13人もの子宝を授かっていた。そのなかで、末娘のゾフィーはドイツ北部のハノーファー侯爵家に嫁いでいる。

 このゾフィーの長男ゲオルクは、ジョージ1世としてイギリス国王の座に即いた(ハノーファー朝)。現在のイギリス女王エリザベス2世は、このジョージ1世の子孫である。

 つまりエリザベスは、現在のイギリス王室の祖先なのだ。ハイデルベルク城は、現在のイギリス王室の祖先となる女性が、海を越えて嫁ぎ、夫と愛を育んだ城でもあるのだ。