江戸幕府が倒れ、西洋文明が流入した明治時代。政治体制や身分制の改革、西洋風の建築やファッションの普及など様々な変化がもたらされ、「美術」という言葉が誕生したのも明治時代のことだ。そんな明治時代の美術を取り巻く社会の変化と作品の変容を「狂想曲」と見立てて紹介する展覧会「明治美術狂想曲」が、静嘉堂文庫美術館(静嘉堂@丸の内)にて開幕した。

文=川岸 徹 撮影=JBpress autograph編集部

「腰巻事件」の全容が明らかに

 これは芸術作品なのか、それとも猥褻物なのか? 

 社会道徳と芸術表現の境界線をめぐって、美術界では古くから騒動が繰り返されてきた。1912年、公共の場に猥褻画を陳列したことにより禁固刑の有罪判決を受けたエゴン・シーレ。1917年にはモディリアーニが生涯における唯一の個展で裸体画シリーズ7点を展示したところ、警察から公衆猥褻罪で没収すると迫られ、作品の撤去を余儀なくされた。

 明治維新を経て近代化の道を進み始めた日本でも、西洋と足並みをそろえるように「芸術か、猥褻か」をめぐる論争が盛んになりつつあった。そして、ひとつの事件が起こる。日本の近代美術史に残る「腰巻事件」だ。

黒田清輝《裸体婦人像》 明治34年(1901)キャンバス、油彩

 事件の主役は黒田清輝。黒田は9年間にわたるフランス留学中に印象派的な外光表現を身につけ、帰国後は日本近代洋画の発展に尽力した画家。西洋の技術とスタイルを取り入れた作品を次々に発表し、1901(明治34)年に開催された第6回白馬会展には油彩画『裸体婦人像』を出品した。

『裸体婦人像』は外国人女性をモデルにした裸体画で、毛皮の上に足を崩して座った女性のふくよかな肉体が量感をもって描かれている。画面右上から光が差し込み、黒田はその光を受けた女性の肌を複雑でやわらかな色調で表現。外光派を代表する黒田清輝の画力を堪能できる名品といえる。

 黒田渾身の力作である『裸体婦人像』は第6回白馬会展の看板の一枚になるはずだったが、警察は劣情を刺激し公序良俗を乱す作品として摘発。一般観客が入れない「特別室」で展示することを求めた。だが、黒田は警察の要求を拒否。「一般公開する」という当初の方針を譲らず、最終的には「腰から下を布で覆う」という妥協案に落ち着くことになった。

 こうして画面の約4割を隠して展示された『裸体婦人像』。しかも隠された部分こそ、黒田が最も見てほしい箇所であった。「最も困難で最も巧拙の分るる所の腰部の関節に力を用いたつもりであるが、其肝腎な所へ幕を張られた訳だ」。黒田が残した言葉には、悔しさがにじみ出ている。これが「腰巻事件」の全容だ。