男女シングルが脚光を浴びる一方で、ペアやアイスダンスは注目度や認知度でどうしても劣る状況が日本では続いてきた。そこにこの数年、変化が起きつつある。その軸となっているのが三浦璃来・木原龍一だ。2人の活躍があってペアへの関心が高まっているこの数シーズンだが、そこに至るまでには土台が形作られてきたからこそでもある。とりわけ、奮闘を続けてきたのが高橋成美である。功労者と言ってもよい高橋の来歴を振り返るとともに、ペアを巡る状況、三浦と木原などについて尋ねた(全4回)。

文=松原孝臣 写真=積紫乃

中国のナショナルチームで練習

 高橋の長いスケーター人生を振り返ると、いくつもの「日本初」が並ぶ。

 高橋がフィギュアスケートを始めたのは3歳のとき。場所は新松戸アイスアリーナだった。

 2歳上には町田樹がいた。

「小学生のとき、プログラムの途中でジャンプを失敗したのが悲しかったのか、音楽はなっているのにリンクに座り込んで泣いていたのをすごく覚えています。うまいのによく泣いているお兄ちゃんだな、というイメージ(笑)。でも今はほんとうに非の打ちどころがないというか」

 高橋が卒業したのは慶應義塾大学。在学中、町田が授業を受け持っていた。

「一回も抽選であたらなかったですね。それくらい人気で受けられなかったのが残念です」

 閑話休題。

 シングルの選手として成長を続けた高橋に大きな転機が訪れる。小学4年生のとき、父の転勤とともに中国・北京に移り住む。

 北京では中国のナショナルチームが練習するリンクに受け入れてもらうことができ、シングルスケーターとして打ち込んだ。

 それは異例のことだった。

「受け入れてもらえたのは、日本人に限らず外国の選手では私が初めてでした。私の頑張っている姿を見てくれている周りのコーチだったり中国人も認めてくださったり、ノービスの強化選手に入っていたので日本スケート連盟さんがお願いしてくれたり」

 リンクには中国のナショナルチームがいて、世界有数の実力を誇るペアの選手たちもいた。

 あるとき、ふと思った。

「かっこいいな」

 ペアへの憧れが芽生えた。

「考えられないような高さまで飛んだりとか、空中で滑りながらサーカスみたいなことをやったりっていうので」

 高橋が12歳のときのこと。

「中国人の男の子から『一緒にペアを組まないか』って誘いがありました」

 ペアに惹かれていた高橋はそれを受け入れた。

「やってみると、ほんとうに面白くて。想像したことのない感覚でした。それこそ内臓が変な感覚を起こしたというかジェットコースターで降りるときの浮き上がる感覚とか。リフトの上の景色ってすごい、いいんですよね。上の方を眺めている感じや天井を見てぐるぐる回されているときの感じ、下はリンク、上は天井という感覚とか。スピードも男の子の方が力強いので、一緒に滑ると一人では絶対出せないスピードが出たり、全部が一人でできないことが二人だとできる、めちゃくちゃいいなって思いました」

 のめりこんでいたのは次の話からも伝わってくる。

「姉は高校受験があったので、父と姉は帰国して、私は中国人とペアを組んでいましたし、スケートができなくなるのがいやだったので、母と2人、中国に残ってやっていました」

 でも中国での生活に区切りをつけなければいけないときが来た。

「だんだん上達してくると、どうしても国を代表するようなレベルになってきます。そうなると国籍の問題などセンシティブなことがいろいろ出てくるわけです。国が雇っているナショナルコーチに習っていて、国としてお金を払っているアイスリンクを使わせてもらっていたので。家族と違う国籍にするのも……と、どうしても決断しきれず、日本に戻ってきました」

 帰国してからのことは「けっこう楽観視していました」と言う。

「日本に帰っても、できるでしょう、という風に思っていました」

 でも——。