わずか30年で生涯を終えた夭折の洋画家・佐伯祐三。荒々しい筆致で重厚なパリの街並みを描いた油彩画は、今も古びない個性にあふれ、見る者の心に強烈なインパクトを与えてくれる。生誕125年を記念した「佐伯祐三 自画像としての風景」展では、創作活動の拠点となった3つの都市、東京、大阪、パリに注目。独創的な佐伯芸術が生成した過程を辿る。

文=川岸 徹 撮影=JBpress autograph編集部

中央《立てる自画像》1924年 大阪中之島美術館

佐伯芸術の原点、若き日の自画像

 1920年代、西洋絵画の技術を吸収しようと意欲に満ちた日本人画家が次々に海を渡った。特に芸術の都・パリは画家にとって憧れの地で、20年代のパリには数百人の日本人が暮らしていたという。だが、ほとんどの画家は作品の買い手がつかず、失意とともに帰国。そんな中、佐伯祐三は高い評価を獲得し、パトロンや画商にも恵まれた。スーパースターへの道を歩んでいた矢先、1928年、30歳にして病死してしまう。

「そんな生涯から佐伯は“悲劇の画家”と呼ばれ、その短い人生にスポットを当てた展覧会が多く開催されてきました。だが、今回の展覧会ではストーリーよりも作品自体に注目。佐伯の表現が変化していく過程を探っていきます」と、展覧会を企画した大阪中之島美術館学芸員・高柳有紀子さんは話す。

 1898年、大阪市北区中津に生まれた佐伯は東京美術学校西洋画科に進学。画学生時代は作風を模索しながら自画像を数多く描いた。佐伯は在学中に相次いで親族や知人を亡くし、自身も病弱で喀血を繰り返したという。死を身近に感じる中で、自画像は自身を見つめる最適なジャンルだったのかもしれない。

 東京美術学校卒業後の1923年には、念願の渡仏を果たす。パリでフォーヴィスムの画家ヴラマンクに会い、自身が描いた裸婦画を見せるが、「生命感がない」「アカデミック!」と罵倒されてしまう。

 ヴラマンクの言葉に大きなショックを受けた佐伯。そんな挫折の中で描いた作品が《立てる自画像》だ。カンヴァスに描かれた佐伯はパレットと絵筆を手にしており画家であることは分かるが、顔の部分は削り取られ、表情はうかがい知れない。だが、顔は見えずとも深い絶望が画面を通して伝わってくる。情けない立ち姿に、こちらの心までひりひりと痛んでくる。結果として、《立てる自画像》は佐伯の代表作の一枚になった。