写真・文=沼田隆一

ニューヨークにある銀行のATMは多言語対応になっている。テラーという窓口では、スペイン語はふつうに通用する

言語は多文化共生の要

 この街を歩いていると様々な言語を耳にするし、目にする公共機関の書類や公共交通機関の案内、それに銀行のATMのスクリーンもさまざまな言語で表記されている。それはその必要があるからなされているのであるが、その言語の多さにはびっくりもする。

 第二の公用語とまで言われるようになったスペイン語をはじめ、今では中国語や韓国語の表記もあるところが多い。そこに日本語がないのは、やはり住民の数が少ないのか? 日本人はある程度英語を理解するという前提なのか? それは定かではない。

 “島国”である日本も、そのうち”ホモジニアスな社会”と言えなくなっていくであろうことは否定できない。ITや交通手段の発達は世界をより身近なものにし、人の往来・交流を活発にするし、さらには日本の人口減少は労働力不足から外国人就労の必要性を高めている。ドイツではすでにこの傾向が見受けられる。フランクフルト駅前は、ほとんどがトルコ料理のレストランでひしめいているし、職種によっては圧倒的に外国人就労者が多い。

 

ニューヨークと東京は似てきた?

 東京をはじめとする日本の大都市でも様々な言語での表記がみられるようになった。東京23区では約46万5千人の外国籍の人が暮らしており、中国、韓国、ヴェトナムの人たちが多い。また近年はブータン、ウズベキスタン、スリランカ、ネパールの人たちも増加しているようである。

 荒川区などはウズベキスタン出身住民が急増しているという話だ。台東区のアメ横はその昔、舶来品が買える場所であったし今もそうであるが、現在は海鮮食品を求める人たちでにぎわうだけでなく、さまざまな言語の看板を掲げる店が軒を連ねるなかで、各国の香辛料、食材が買える街に変貌した。

 新大久保も一時期のコリアンタウンのイメージからネパールやヴェトナムのお店も増えパンアジアの雰囲気に変貌しているなか、街の活性化に多国籍会議なる地元の人たちの組織が大いに貢献していると聞く。なんだかニューヨークに似た「におい」が醸し出されてきた気がするのは私だけだろうか?

ニューヨーク地下鉄の券売機の多言語スクリーン。中文とハングルはあるのだが……

相互理解は他言語への尊重から

 グローバルシティに脱皮するには、まず人が自己と社会との対話を通じて、そこに内在する”不協和音”に肯定的に耳を傾け自分とは違うものに向けて心を開いていくことが不可欠であろう。そして異物を受け入れる器を作るためには、言語が重要なカギのひとつとなることをニューヨークにいると感じる。

 日本人の精神性を考えると”私”が”私達日本人”へと思考ベースが気付かない間にすり替わり、日本人という全体性の下で、”私”あるいは”私達”とは相いれない人々や考え方を排除してしまうような作用が生まれる危険性がある。民族的調和が、ともすれば個人の自由や異文化への寛容よりも優先される可能性がある。そう危惧するのは私だけであろうか?

 言語はそれを使用する民族の魂を育て、その人種のアイデンティティそのものともいえる。ドイツの哲学者ハイデガーは、”言葉は存在の家である”とまで言い切った。残念ながら過去の戦争において言語をなくすることでその国を駆逐しようとした例は多い──普仏戦争、ハワイ王朝がアメリカの一部になった時代、日本の朝鮮半島統治の時代など、だ。つい最近もEU離脱のイギリスで移民に否定的な考えの人たちが、ある住居ビルで英語しか使えないようにしようとする張り紙をした事件があったようだ。

 かつて日本には筒井俊彦博士という”東洋哲学”を確立した偉大な哲学者がいた。博士は同時に語学の天才といわれ、さまざまな言語を駆使してそれぞれの文化文明の根底に流れる哲学を理解し、そこに共通するものを見出して世界の相互理解に発展させようとした。われわれは、このレベルに到達できないかもしれないが、少なくとも他国の言語を尊重することは肝要である。

 外国を旅しているとき日本語が少しでもできる外国人に出会うことで心を開いたり、気が休まることがある。とはいえ、ニューヨークでは相手の国の言葉を使って巧みに接近し、悪事をはたらく輩もいないわけではない……。

ニューヨークの市バスの後部に張られているサインボード。最近専用のバスレーンを設けたことから、そのレーンに入ってくる一般ドライバーに注意喚起するメッセージ。日本とはまったく違うアプローチの表現が、ダイハードなニューヨーカーにはぴったりである

グローバルシティの礎

 ニューヨークのような社会では、いろんな国の言葉を英語のなかに取り入れてすでに使ってしまっている例も多い。ほんの僅かの例を挙げてみると、グル(サンスクリット語)、サファリ、ハラル(アラビア語)、RSVP, デジャブ,コムシコムサ(フランス語)、デリカテッセン, レイトモティフ(ドイツ語)、パティオ、マッチョ(スペイン語)、カラオケ、ツナミ、スシ(日本語)、ディムソム, ガンホー(中国語)、バブーシュカ(ロシア語)、パパラッチ、ゴンゾ、シナリオ(イタリア語)、コッシャー, シュマック(イディッシュ語)などがある。最近ではマンハッタンのテイクアウトフードで人気が出始めたポケはハワイ語である。以上挙げた言葉には日本語になっているものも多い。

 その国の言葉を知ることはさらにはその国の人たちのコミュニケーションの特徴を知り、さらには文化や習慣を知る手掛かりとなる。ニューヨークの日常は様々なアクセントの英語が飛び交っており、話す人の、出身国の身体的表現や発想の仕方はバラエティに富んでいる。チャイナタウンに限っても、ライブリーな広東語もあればメローな北京語もある。あまり身体表現のないアジア人と、身振り手振りの大きいラテン系の人との会話はコミカルに見えるときもある。

 様々な国の価値尺度と身体表現方法をもっている人たちが共存するニューヨークでは、日本の美しいコミュニケーション表現のひとつであり、また、日本人の行動に組み込まれている大切な特質である“阿吽の呼吸”は通用しないときがしばしばある。

 多文化社会でのコミュニケーションにおいては、われわれ日本人は相手への気遣いから”こんなこと言わなくてもわかるだろう”ではなく、状況に応じて”はっきり言わないとわからない”と認識すべきだ。能動的に、ときに情熱的にコミュニケーションするという意識改革が必要である。

 言語を知ることは宗教や文化を学び、習慣を理解すること。それはライフを豊かにすることにつながる。言語に対するリスペクトはグローバルシテイを築くための礎のひとつでもある。