《太陽の塔》や《明日の神話》など、強烈なインパクトを放つ作品を次々に生み出した芸術家・岡本太郎。1970年に開催された日本万国博覧会、通称“大阪万博”では「太陽の塔」をプロデュースし、テレビCMでは「芸術は爆発だ!」のセリフが流行語になった。そんな岡本太郎の全貌を知る史上最大規模の「展覧会 岡本太郎」が東京都美術館で開催されている。

文=川岸 徹 撮影=野澤由香

「展覧会 岡本太郎」展示の様子。《若い夢》1974年 川崎市岡本太郎美術館蔵 

若い世代もハマる岡本太郎の魅力

 今もなお老若男女問わず、多くの人々に刺激やインスピレーションを与え続ける芸術家・岡本太郎。2008年に渋谷駅構内に恒久設置された《明日の神話》は、当初は「原水爆をモチーフにした作品をパブリックアートとするのはどうか」などと反対の声も出たが、今や日常の風景としてすっかり定着。今年7月にはNHK・Eテレが岡本太郎の作品や言葉をベースに制作した特撮ドラマ『TAROMAN 岡本太郎式特撮活劇』がスタートし、大きな反響を呼んでいる。

 これほどまで時代を超えて愛され続ける岡本太郎とは、いったい何者なのだろうか? 展覧会は様々なジャンルの作品が集まるハイライト的な序章と、「岡本太郎誕生―パリ時代」「創造の孤独―日本の文化を挑発する」「人間の根源―呪力の魅惑」「大衆の中の芸術」「ふたつの太陽―《太陽の塔》と《明日の神話》」「黒い眼の深淵―つき抜けた孤独」の6つの章で構成。1~6章は時系列での紹介になっているので、作品を鑑賞しつつ、岡本太郎の人生像を探ってみたい。

 

戦争を経験し、「対極主義」を提唱

 1911年、人気漫画家であった岡本一平と、歌人・小説家・仏教活動家として知られる岡本かの子のあいだに生まれた岡本太郎。東京美術学校(現・東京藝術大学)に進学するも半年で退学し、両親とともにパリへ渡った。両親の帰国後も「日本というカラを脱して世界人になろうと願った」との思いから太郎はパリに残り、31年にはパリ大学に進学。哲学や心理学、民俗学などを学びながら、パリの芸術運動グループにも参加する。

 パリ時代の作品は東京に持ち帰った後、すべて戦火で消失したといわれていたが、第1章「岡本太郎誕生―パリ時代」では、最近パリで見つかった3点の作品を参考展示。岡本太郎の作品と断定されたわけではないが、パリ時代に刊行した岡本太郎初の画集『OKAMOTO』に類似する作品が掲載されており、その可能性が非常に高いのではないかと推察されている。

 ほかにも画集『OKAMOTO』に掲載された図版を元に、戦後になって太郎自身が再制作した4点の初期作を展示。なかでも《傷ましき腕》はインパクトある一枚。傷つきながらもぐっと握りしめられた拳に、異国の地での不安と芸術で生きていこうとする強い決意が表れているように感じる。

《傷ましき腕》1936/49年 川崎市岡本太郎美術館蔵 

 1940年、ナチスによるパリ陥落の直前に帰国した岡本太郎は、中国で4年間にわたり過酷な軍務と収容所生活を経験する。46年に復員した太郎は戦争に奪われた時間を取り戻すかのように、猛烈に制作活動に励んだ。

 第2章「創造の孤独―日本の文化を挑発する」では、終戦後の作品を紹介。太郎はこの時期、彼の代名詞ともいえる「対極主義」を提唱し、無機と有機、抽象と具象、静と動、美と醜など、対極の要素が混在した作品を描いた。太郎はカンヴァス上で近代精神の裏表ともいえる2つの立場をぶつけることがアヴァンギャルド芸術家の使命だと考えていたのだ。

《重工業》1949年 川崎市岡本太郎美術館蔵 

 この時期の代表作《重工業》。農産物と重工業、人間の生命と巨大な機械など、対立する要素が激しくぶつかり合っている。